雨とワックスのにおい

本を読んでもノートを開いても、文字が頭に入ってこない。
こんな日もあるかと、電車の座席に座って思考を止めた。
丸の内線は実は荻窪まで伸びている。

降りる駅だと思って席を立ったが、あとひと駅先らしい。
空いた車内で一人立っていることの意味を考え続けるほどの力もなく、
さっきの座席の斜め向かいに座り直した。

さっきまで僕と同じ列、2人分ほど空けて座っていた男性は、
落ち着きなく辺りを見回し、僕と目が合うとぼそり「なんだよ」と吐き出す。
そうだな、僕は、なんだろう。

アナウンサーがカメラのレンズの少し上を見るようにして、彼の輪郭をうつろになぞる。
突然課された宿題の答えが出ぬまま目的地に着いたので、
手すりをだらりと持って身体を引き上げ、彼の横を通って車外へよじり出た。

ホームに降り立つと雨のにおいがしたが、階段を登って地上に出てみれば、とっくに上がった後だった。
そしたら今度は、ついさっき美容室でカットの後につけられたワックスのにおいが妙に鼻にさわり出したから、
足早に家に帰ってまとめてシャワーで洗い流した。

SAMSUNG

今日は土曜だと思っていたら、どうやら日曜らしい。
手持ちのケータイは手ブレがひどくって不可ない。

自己責任論のズレ

田中龍作ジャーナル | 「奨学金」という名の学生ローン 1,000万円超す借金抱える若者も
奨学金を自己責任の問題にすると日本が滅ぶ – 技術教師ブログ

奨学金の返済困難や就職難といった、若者の社会・経済的苦境の話題になると必ず出てくるのが自己責任のシバキアゲ論なのだけど、あれがなんでズレてるかって、ああいう言説の適用範囲を想像してないからなんじゃないかなと思う。

自分の人生をどの程度主体的にコントロールできるか、と考えたときに、その度合い(能力面でも意思の面でも)が大きければ大きいほど自己責任論はすんなり受け入れられるのだろうけど、その逆、個人じゃどうしようもないレベルまでトマホークをぶん投げるから不味い。

現在から見て未来を考えて作っていく場合であれば、先のことは分からないわけだし、また意思決定の主体が社会的にも自立した大人であれば「自分の人生は自分で考えてなんとかしろ」と言っちゃえるのかもしれない。
で、そういう言説を好むのは、だいたい社会的にもある程度成功して、「自分の人生は自分で切り拓けるし、切り拓くべきだ」という信念を強固にした方々なのだろうけど、彼らが自分と近しい人・近しい環境―たとえば、激務の外資系コンサル・投資銀行に自分から就活して入ってきた、それなりにタフな学生・若手社会人に対して上司・部下の関係で言うならまぁ分かる。
だけど、その言説のスコープを社会全体に広げるのは無理がある。子どもたちにはコントロールできない生まれ・育ちの時点での社会・経済的格差や、青年たちにはコントロールし切れない景気・就職の動向や卒業後の稼ぎの見通し、教育の質を無視してマッチョになれと言われても、無茶でしょ、と思う。

難しいのは、こうした話題の渦中にある20歳前後の青年期が、保護・教育の客体としての側面(子ども)と自主・自立した主体としての側面(大人)が折り重なった時期であるからだろう。加えて、社会が成熟するにつれてモラトリアム期も長くなっていく傾向にあるから、すでに中年・壮年となった方々の当時の若者感覚とは当然ギャップが生じるのであり、最近の若者は情けない・根気がない・のんびりしている・覇気がない⇒だから就職できない・奨学金を自分で返そうともしない、みたいな発想に陥りやすいのだと思う。

借りたお金は返す、というのは当然のことだし、学生支援機構の奨学金も、名前は「奨学金」だけど実態は貸与ローンであることぐらい、申し込み時にどんな学生だって書類を書きながら普通は自覚・理解する。返す当てがないなら借りるな、それぐらいの金銭的・経済的判断・マネジメントは大人なんだからちゃんとやれ、と言う人もいるかもしれない。
とはいえ、多くの学生は、高校・浪人から上がって大学に入ったばかりタイミングで学生支援機構の奨学金(ローン)を申請するわけだし、その時点に様々な不確定性・リスクを見越して、奨学金を借りるかどうかの判断を下したり人生設計をできる学生なんてほとんどいないと思うんだけど。ましてや、最初から返す気が全くなくて踏み倒してやろうなんて気で借りる人なんかほっとんどいないはず。
入学後も学業や課外活動や就活に追われるうちに、そうしたフィナンシャルプランを立てることは後回しになりがちだ。それぐらい在学中にできるようになりなさいというなら、それを教える・促す人や仕組みや教育機会はもうちょっと必要だろうとも思うし。

高い教育を受けて、ビジネスの世界でも組織を運営したり仕組み・構造を作る側に回っているような優秀な方々が、こういう話題になると急に視野狭窄のマッチョ自己責任論を振りかざすのを見ると、なんだかなぁ、と思う。

P.S.
というわけで、渦中の若者世代からしたら、なんでもかんでも自己責任論にせずに、きっちり構造上の議論や法制度改正をしてくださいよってことなんだろうだけど、「若者」という集団・立場さえもとっぱらって、一度切りの自分の人生を生きる、根源的な当事者たる「わたし」の立場からしたら、結局「今、ここ」から出来る最大限の抗いをするしかないのだ。

一度きりの人生単位で考えたら、「わたし」の生まれたタイミング・環境が不運にして相当程度不利だったり、そうした状況に対する社会的・構造的な是正措置が取られない、あるいは間に合わないこともある。それはもう当たってしまった以上仕方ないことだから、頭使って一番マシな戦略を探して行動し続けるしかない。文句言ってても誰かが助けてくれるとは限らないし、諦めたって状況は好転しない。
1)既存の仕組み・環境のなかで最大限頑張ってマシな待遇を得て、サバイブし続ける。
2)既存の枠組みを変えて新しい仕組みを作る、そのためにできる様々な働きかけをし続ける(記事にあるようなデモもその一つかもしれないけど、必ずしも有効で賢い戦略とは言えない)。
3)今いる環境から逃げ出し、よりマシな、より自分にフィットする環境や社会を見つける。  

できることってだいたいその3つしかない。あるいはその3つを同時進行的に、あるいはこまめにスイッチしながらトライアンドエラーを繰り返すしかない。

イベントUST告知: 7/13(土)やさしい放射線の話withおいしいごはんとお酒

2013年7月19日(金)更新
イベントにご参加してくださった方、USTREAMをご視聴してくださった方、ありがとうございました。
下記が、録画アップロードされたイベント映像と、当日配布のスライドデータになります。
録画前編
録画後編
スライド

ーーー
FB上で何度か告知をしていましたが、明日7/13(土)に横浜にて、放射線のこと、健康のことをお話するイベントを実施します。

ご好評につき当日参加は締め切りましたが、下記のチャンネルからUSTREAM配信をご覧になれます。
(録画アップロードも予定しているので、後日ご鑑賞いただくことも可能です)
やさしい放射線の話 withおいしいごはんとお酒
ご興味のある方、是非ご覧ください。放射線のこと、気になっているご友人が身の回りにおられましたら、こちらのチェンネルをご紹介ください。

また明日のイベント開始前にはSlideshareを利用して当日資料もアップロードします(現在鋭意作成中…汗)。
どうぞよろしくお願い致します。

ーー以下、イベント案内転載ーー

今さら聞けないキホンのキから、「結局今どうなってんの?」まで、放射線と、それにまつわる健康・暮らしの話を、なるべく数式や専門用語を使わず、喩え話なども織りませながらやわらか〜く噛み砕いてお話します。

・ベクレル?グレイ?シーベルト?単位がそもそも分からない!
・どれぐらい放射線を浴びると危険なの?
・ヨウ素とセシウムってどう違うの?
・お米、野菜、水道水…何が安全?どう判断すれば良い?
・癌になる可能性が上がるっていうけど、タバコとかと比べるとどれぐらい影響があるの?
・妊娠・出産のことが心配…
・安全・安心ってなんだろう?そもそも健康ってなんだろう?
みなさんの素朴な日常の疑問や不安、既存・最新の調査・研究結果に基づきながら、放射線について、分かっていること、また分からないこと、どう考えれば良いのかなどなど、お話します。

実は放射線というのは、原発事故が起こる前から僕たちの日常に身近な存在としてあるのです。東京・NY間を飛行機で往復すれば宇宙から降り注ぐ放射線に一定程度被曝しますし、レントゲンやX線検査も放射線を利用した医療行為です。癌の治療方法のひとつとして放射線治療もあります。ラジウム温泉やラドン温泉というものもありますし、実は僕たちの体内にも、カリウムという放射性物質が常に一定程度存在しているのです。

放射線に限らず、僕たちの生活はたくさんの「リスク」に取り囲まれています。それらを完全にゼロにすることは出来ません。でも僕達は今日もどうにか無事に、生きています。これはいったいどういうことなんでしょう?

放射線のお話を中心としながらも、それをきっかけに、みなさん一人ひとりが自分の身の回りにある「リスク」というもの考え、暮らしを見つめなおすお手伝いが出来ればと思っています。

おいしいごはんとお酒を愉快に囲みながら、放射線のお話をお肴に、ぼく・わたし・あなたの暮らしと健康のこと、ゆっくり語らいましょう。

【日時】2013年7月13日(土)18:30開始予定
USTチャンネル: やさしい放射線の話 withおいしいごはんとお酒

■おはなしする人
鈴木悠平
昭和62年、神戸生まれ。文章を書いたりお話をしながら、人間のこと、生老病死、暮らしのこと、考えている人。2011年6月〜2012年8月に宮城県石巻市に居住、「一般社団法人つむぎや」の立ち上げスタッフとして牡鹿半島で活動。
現在、身分としては大学院生。ニューヨーク、コロンビア大学公衆衛生修士過程在籍中。今夏5月〜6月は、福島医大で放射線に関する研修を受けつつ、福島県内にも滞在。
https://yuheisuzuki.wordpress.com/
http://apartment-home.net/

■ごはんつくる人
新田理恵
昭和59年、大阪生まれ。食べることに並々ならぬ関心があり、管理栄養士を取得し、フードコーディネーターの仕事に就く。料理の撮影を現場で覚えて写真表現大学を卒業後、フリーランスの写真家…そして食卓研究家として活動中。料理やプロダクトなどの撮影や、薬膳料理のレクチャー、毒を食べるワークショップ(http://kitakagaya.exblog.jp/18417507/ )なども展開。
HP : http://www.lyie.net/

■配信する人
駿河由知
STARTLINE 代表取締役

おはなしする人とごはんつくる人は
浜のお母さんたちと作る、鹿角アクセサリー”OCICA”プロジェクト@石巻・牡鹿半島で一緒した仲です。
http://www.ocica.jp/
http://goo.gl/Vj06f

川内村に行った日のこと。ばあちゃんの梅酒

「線量低いのは確認されたから作付しても大丈夫ってことだげど、子どもに福島のもんは食うなって言われたから、ずっとやってた田んぼも畑も、やめちゃったんだよねぇ」
川内村で出会ったおばあちゃんは僕にそう話してくれた。
東京に帰ってきた僕の部屋の枕元には、そのおばあちゃんからもらった、13年モノの梅酒の瓶が置いてある。

福島医大での研修プログラムの一環で、医師・看護師の方と一緒に健康相談会を実施した時のこと。6月12日(水)、朝早くに福島を出て、双葉郡の川内村へ。

川内村は、こんなところにある。この画像の下の方。村の一部は福島第一原発から20km圏内に入っている。
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福島民報 minyu-net「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」区域(2013年5月28日現在)

2011年3月16日に村長より「全村避難」指示が出され、村の人びとは郡山をはじめとした県内外へと避難した。その後、放射線量が比較的低かったことから2012年1月31日に「帰村宣言」が出された。上記のように一部区域が放射線量に応じて避難指示解除準備区域と居住制限区域に制限されているが、帰村宣言から1年が経った2013年時点で”村民約3,000人の内1,163名(2012年11月現在、週4日以上村内生活者)、4割が帰村”している(参照)。

川内村のウェブサイトは、通常のものに加えて東日本大震災特別サイトも存在している。遠藤雄幸村長による「帰村宣言」や、「帰村宣言」から1年後に発せられた村民へのメッセージも全文読むことができるので、是非訪問してみてほしい。(正直、役所や自治体のページって見にくいものも多いのだけど、ここはとてもすっきりデザイン)

帰村に向けた取り組みの中で、村長を中心に、何度も村民との懇談会・説明会・相談会が実施されたらしく、村に帰る人、様子を見る人避難先の都会で暮らすことを選ぶ人、それぞれの感情や考えを尊重した丁寧なコミュニケーションがなされていることが、これら村長からのメッセージ文面からも強く伝わってくる。

農業のこと。一般食品の放射性セシウムの規制基準値100Bq/kgを大幅に下回る結果が出たため、今年度から米の作付が再開されている。

同原発から約20キロの川内村は2011年度、緊急時避難準備区域や警戒区域に指定され、稲の作付けも制限された。しかし、村の放射線量は比較的低く、秋元さんは「作らなければ放射性物質が含まれるかどうか確かめられない」と、村で唯一稲作した。収穫したコメからは放射性物質は検出されなかったが、販売はできなかった。
12年度は村が30枚の水田で試験栽培。1枚で国の基準値を大幅に下回る1キロ当たり7.7ベクレルの放射性物質が検出されただけだったため、今年度は原発20キロ圏内を除く全域で、全袋検査を条件に作付けが許可された。―福島原発事故:川内村で初の出荷用田植え始まる
毎日新聞 2013年05月12日 22時06分(最終更新 05月13日 09時16分)

 
背景の話はこのぐらいにして。

そう、おばあちゃんとの健康相談の話。
子どもには食べるなって言われるし、発表では作付しても大丈夫だって言われて、実際のところどうなんですか、という質問。
僕は医療者ではないので、「なんか最近心配事とかないですか〜?」と問診して回り、お医者さんのもとに通して健康相談に同席する役割。医学的観点からの実際のアドバイスは担当のお医者さん・看護師さん・放射線技師さんが担当する。

相談を受ける側の立場としては、医学・疫学的観点に基づいた視点の提示はできても、特定の行動を押し付けることはできない。今回のケースでは、計測された放射線レベルなら身体への影響は心配しなくて良い程度に低い、ということは言えても、だから作付をすべきだ、とか、意見が異なる子どもや孫に対しても食べさせるべきだ、なんてことは当然言えない。

おばあちゃんと、その子どもや孫との関係に僕たちが立ち入る権利など無いし、そもそも「正解」などありはしない話だ。
(放射線による生体へのリスクはこのぐらい、という話はできても、そのリスクをどう捉えるかは個人によって違うから、価値観についてはどちらが正しいという話ではない)
 
担当のお医者さんが、医療者としての立場から、言えることだけを言って、あとはそのまましばらく、相談がてらの世間話を聞いた。 
 
「震災の前はね、毎年採れた野菜を近所で分け合ったり、子供や孫に食べさせてたんだよ。梅酒も毎年漬け込んで。そういうのも全部やめちゃった」
「子供に言われたから作付もやめて、お米や野菜はスーパーで買って食べてんだけども、あんまり美味しくないんだよねぇ。やっぱり野菜は採れたてが一番美味しいのよ」

僕も石巻・牡鹿にいたころ、地元のおっちゃんおばちゃんから海の幸・山の幸をたくさんいただいたけれど、やっぱり農村・漁村で自然と共に暮らす人たちにとって、採れたものを分け合うこと、その過程で話し笑い合うことはかけがえのない財産なのだと思う。

僕たち人間の健康に影響を与えるのは、放射線や化学物質、細菌やウイルスといった環境・生物的な要素だけではない。貧富の差とか教育とか、生活インフラ、それから、人との繋がり―ソーシャル・キャピタルや、仕事や役割―生き甲斐を持つことなど、社会・経済的な要素も確実に影響している。

今回の原発事故がもたらした被害は、放射性物質の拡散、被ばくによる身体への直接のダメージだけではない。
むしろ、事故に伴っての避難や生活区域の再編、個々人の意見の相違による、社会・経済レベルでの分断の方がよほど大きい。
それまでは仲良く暮らしていた村の近隣住民同士、家族や恋人同士が引き裂かれてしまう、そのこと。

放射線の話以外にも、長時間座ってから立ち上がって歩くと膝やふくらはぎが痛むとか、重い物を持つと腕が内出血してしまうとか、そういう、身体の調子の相談も受けた。旦那さんも亡くなったから一人暮らしらしい(理由や時期は聞いていない)。田舎だから病院も遠い。老いに伴う身体の衰弱は、誰にとっても不可避で当然の流れといえばその通りかもしれないけれど、医療機関へのアクセスが悪いなかで、弱った身体を抱えて過疎地で一人暮らしをすることの方が、放射線被ばくなんかよりも、正直よっぽど心配だ。
 
   
「健康」とはいったい何だろうと、考えさせられる。
それは、「医学」のみによって達成されるものなのだろうか。
それとも。
 
 
 
「家の前の木に毎年梅の実がなって、それを梅酒にするのが趣味だったんだよ」 
話している途中で、おばあちゃんは涙ぐんでしまった。

「おばあちゃんの梅酒、飲んでみたいなぁ…」
僕はそこで、ぽろっと言った。

「え、梅酒飲みたい!?昔漬け込んだやつがまだあんのよ。今から取ってくっから。ちょっと待ってて!」
ばあちゃん、ぱぁっと顔が明るくなった。ほんとに驚くぐらい。

健康相談は村内のデイサービスセンターで実施したのだけど、ばあちゃん、わざわざ車で家まで梅酒を取りに帰って、そしてまた戻ってきてくれた。ついさっき、膝が痛いとか、重い物持つと腕が内出血しちゃうこととか、言ってたんだけど。

で、梅酒をもらったんだけど、これがずしりと重い。よくあるあのガラスの瓶の、でっかいやつを丸ごともらってしまった。瓶の蓋に漬け込んだ日時が書いてある。平成12年に漬け込んだものだから、当然震災よりずっと昔。13年熟成。

年齢を聞かれて25歳だと答えたら、孫とちょうど同じぐらいだって。
東北の農村漁村に行ってると、そういうことがよくある。

結果的にばあちゃんは来た時よりも笑顔になって帰っていってくれた。
それで、友達にこの日の話をしたら、「相変わらずの孫力だねぇ」なんて言われて、苦笑いするのだけど、当然ながら僕はほんとの孫ではないわけで、川内村の村民でもない僕は、こうして東京に帰ってきて、自分の日常に戻るのであり、このばあちゃんと息子さん、お孫さんとの関係が、この先どうなるかについては知る由もない。知ったところで出来ることもない。

他人にできることなんてその程度だよ、とは分かってるけど、さ。
 
 
 
そんな梅酒が僕の枕元にある。
でっかい瓶だからまだまだたっぷり。
これが実に旨いんだ。
みんなにも飲ませてあげたいよ。

そうだ、ばあちゃんにお手紙も書かなきゃ。
文の月。

あわいを生きてる

公開しない体で日々の日記をつけていたけど、ここ数日の出来事や考えに共通点があったので、
そのまま載っけちゃおうかと思って。たまにはね。

何かと何かの、間
あわい
そんなテーマで。
(だからこの記事も、構成と非構成の、間にあるのだと、そんな言い訳をしてみるのです)

2013/07/04 Thu.

スパイラルに陥らないように。
その瞬間の自分の素直な感覚に従うことも大切だけれど。
一方で、「そう思おうとしている」自分の存在、無意識に形成された強迫観念を、ある程度対象化することも大切。
まぁ、意識する、気をつける、では習慣は変わらないのだけど。
どこかのコンサルのおっさんが言ってた、時間の使い方、環境、人付き合いを変えろ、という主張だけど、
habit(習慣)に関する学術研究においてもおおむね同じ事が指摘されている。
 

 
「誰もお前の細かい行動なんか気にしてないよ」

時折自分に言い聞かせる。

* 
 
社会は巨大なお芝居の舞台で、人生はその中でいくつかの役割を順に、あるいは同時に、あるいは交互に演じていくことなのだという話をした。
理解した上で、役割に準ずる、時に外す/トチる、反逆する人
理解しないままで、踊らされる、反発する人

ひとつのペルソナだけを見て、相手の「人間性」を断定したくないといつも思っている
知らないところ、覆い尽くせないところはいつでも残るから
それでも知りたい、重なりたいと思うのが人情だけど
永遠の追いかけっこ

東京という街で生きることをどう表現したものかって、たぶん、その身を「浸し」ているというのが一番感覚に近い。今のところ。

同じ都市と言ってもNYとはまた違う。NYでは骨と輪郭を持って舞台の上に立っているような感覚が強い。
NYは街全体がジャズのようですね、と言った人がいた。

2013/07/05 Fri.

担当していたインタビュー記事を朝に仕上げて入稿。
ちょっとずつ、書くお仕事、していきたい。

書くことに限らず、社会と接続してバランスを取るためには、
何かしらのお仕事を持っていることはやっぱり大切だな、と何度も思う。
僕のように内側に潜りがちな人間は特に。
そんなものがなくても出来る、というのが理想だけど、
締め切り、読み手、上司・同僚、クライアント、商品・サービスの購買者・購読者etc.
仕組みやスケジュールのなかで否応なく他者の存在が可視化されているというのはやっぱり有難い。

お勤め3週目が終了。早かった。

それにしてもキャッシュが無い。
試用期間が終わり今週からお給料が発生しているのだけど、
振込は来月になるから今月は緊縮財政。

心は錦ってね。

ここ数週間ずっと咳が出る。なんでだろう。
風邪ぽっかったけどくしゃみとかはもう治ったしなぁ。
この夏は無保険だから病院行くわけにもいかない。

ノマドとかそういう流行り言葉はどうでも良いのだけど、
図らずもそっち界隈に近いライフ・ワークスタイルになりつつあって、この先どうなることやら。
国籍、戸籍、住民票、国民保険、年金、住居、そういうハコにちゃんと収まっていない不安定さはある。
移動が多いと荷物を多くできないから、家具とかかさばるものは買えない。買うお金もないが。
(本だけはどんどん増えていくから困る)
ま、なんとかなるんだろうけど。
確固たる足場や肩書きを外部から与えられなくても、
自分でちゃんと生きてる人の具体例が身近に多すぎるからな。
国籍ひとつとっても、日本とアメリカの(こっそり)二重国籍だったり、
あるいは故郷を追われて難民となった人だったり、
在日外国人だったり帰化したり、色々いるからな。
それぞれの人がその境遇ゆえに背負った大変さもあるし、
社会現象としてどう議論し対処すべきかというのは別の議論としてあるけど、
ひとりの人間が、生きる、生き抜くということからしたら、究極的には瑣末な問題だ。

一方で、HOMEがある、HOMEを持っていると思えることは、人が健やかに生きてゆくうえで大きな支えになる。
「ただいま」と「おかえり」を言える関係性、日常。
最低限それだけでも、みんなが持てる社会だと良いなぁと思う。
それは必ずしも「地元」的なひとつの土地や街でなくたって良くて。
時期によって変わったり、複数持っていても良くて。

ふらふらと移ろいながらも関わってきたいくつかの分野に共通しているのは、
自分自身の居場所や役割、心身や健やかで穏やかな暮らし、あるいは安らげる暮らしを持てなかったり、
そういう出来事に直面した/している人たちがいる、ということだろう。
紛争、障害、災害etc.

富岡や小高や飯館や浪江の人たちのことを想う。
いつかの将来に(場所によっては数世代先になるだろう)、帰ることが出来れば幸いだけど、
新しい場所での直近の暮らし、ここでも別のHOMEを持つことができますようにと願う
 

 
本当は、 
「大丈夫であるように」と、そう願っているのは他ならぬ僕自身でもある。

2013/07/06 Sat.

起きてみたらなにこの暑さ。
梅雨、もう終わり?まだ?もうすぐ?

梅雨と夏の間。

少なくとも、僕の今日の気分は夏、夏だってばさ。

夏だ!と思った時に聴く曲は決まっている。

JUDY AND MARY Brand New Wave Upper Ground

おいかぜーをーたっどぉればーくもーがーはーれてゆくー!
ってね

少し前にちょっとおセンチな気分になって、あまり人がいない静かで肌寒い海に行きたい、なんて言ってたけど、
太陽いっぱいの夏の空の下、海辺や桟橋を走るようなこともしたい。

女心と秋の空、なんて言いますが、
男だって、夏だって、いつでも表情と気分は変わるんです。
昨日と今日の間。
ネアカとネクラの間。

2013/07/07 Sun.

昨日公開したみちのく仕事のインタビュー記事がけっこう好評で嬉しい。
書き手冥利に尽きる。

震災後、「東北との関わり方」をどうしたら良いか/どうすべきか/何ができるのかといった悩みや相談と出会うことが多かった。
あるいは最近は、震災に関わらず、主に若い世代の間で、「働き方」や「暮らし方」そのものを考えなおす/問いなおすということがちょっとしたトレンドになっているように感じる。

伴って、方法論や形式論が盛んに議論される。株式会社/NPO/一般社団法人/任意団体、雇われ/起業/フリーランス、都会/地方、Uターン/Iターン、日本/海外、就職/進学/休学 etc.
こうした話題がトレンドになるのは、今まで主流となっていた(らしい)働き方に疑問が持たれ始め、ある種の過渡期にあるからだろうと思う。震災が人びとの心を揺さぶり、こうした問いかけや悩みを加速させた面もあるだろう。
方法や形式が内実を左右する割合はとても大きいから、自分にとってどの方法・形式がピッタリなのか考え続けること自体は大切なことだと思う。

ただ実際は、二者・三者択一で選び取られるほど働き方というのは単純なものではないし、どれかひとつの形式が他に比べて優れているというわけではない。
なので、考えること自体は大切なのだけど、一方、考えているだけで答えが見えるわけではないのも事実で。
また、最初から不変不動の最終的な答えがあるはずもないというのも事実で。
やってみて初めて分かる、ということもたくさんある。

流動的な状況・自分自身の変化・成長に合わせて少しずつシフトチェンジがなされ、だんだん落ち着くべきところに落ち着いていくもんだと思う。
人間ひとりの人生単位で見たときには、上記のような形式論の粒度では掬いきれないだけの多様性と流動性がある。何かひとつを選んだように思えても、2,3年後には考えも働き方も大きく変わっているということは十分あり得る。

昔誰かが言ってた「会社に人生を預けるな」という言葉には共感するところだけど、
自分以外の誰かが掲げる「働き方論」に自分の選択を預け切ってしまうことも、組織に身を預けることと本質的には変わりない。
山を登る時に、得体の知れない「誰か」に上からロープを垂らしてもらうよりは、
時間がかかっても、ハーケンをひとつずつ打ち込んで、自分で登っていきたい。
 
 
「答え」なんてものが仮にあるとしたら、それはいつも何かと何かの「間」にだろう。
掴めるようで掴み切れないから、リアルタイムで触れてはすれ違う。
「わたし」と「あなた」の間
「個人」と「組織」「社会」の間
「自分の働き方」と「あなたの働き方」の間
「現在の自分」と「未来の自分」の間
「実践」と「言論」の間

あわいを生きてる。

「みちのく仕事」インタビュー記事を書きました: 本当の意味での持続可能な社会をめざして(戸上昭司さん)

東北で暮らし、働く人たちの物語を伝えるウェブサイト、みちのく仕事で記事を書きました。
福島県田村市で活動する戸上昭司さんへのインタビューです。
震災から2年の日々を振り返りながら、ご自身の働き方、これからの福島、ひいては日本の持続可能な未来の絵姿を語っていただきました。

前編: 本当の意味での持続可能な社会をめざして(1)
後編: 本当の意味での持続可能な社会をめざして(2)

名古屋からボランティアとして通う生活から、右腕派遣制度を利用して「元気になろう福島」に右腕スタッフとして1年間活動し、その後も同団体を通じて起業支援に携わった「蓮笑庵 くらしの学校」( まるでジブリの映画の舞台のような素敵な場所!!) の立ち上げ・運営にフリーランスの立場で継続して関わられている戸上さん。

「どんな立場の人でもその人の人生が全うされる社会」という目標。
誰かが誰かに完全に依存し切るのではなく、それぞれが自立した上で関わりあうこと。
ご自身の生き方、働き方にひきつけてお話いただきました。
 
 

 
お話を聴きながら、あるいはそれを記事にまとめながら、
自分自身の想いや考えにシンクロする話題・視点がたくさんあった。
震災直後からの状況変化に応じて自分の居場所や立場も流動的に変遷していったこと、その際に右腕派遣制度を利用し、事業の立ち上げに携わったことなど、似た道筋を辿ってきたことがひとつには大きいだろう(右腕終了後、戸上さんはフリーの立場で現地に残り、僕の場合は大学院に進学したけど、個人として継続して宮城・福島に関わっている点ては共通している)。
「どんな立場の人でもその人の人生が全うされる社会」という戸上さんも目標に関しても、言葉は違えど同じ想いを抱いていた。
震災から2年が経って、ということでのインタビューだったけれど、奇しくも自分自身の2年間の変遷を重ね合わせるような体験だった。

蓮笑庵、また行きたいな。