Diary: 11/20/2012 Tue.

After the classes in the morning, I went down to Chelsea, to see one Japanese photographer’s exhibition. It’s still Tuesday, but the train was more crowded than usual. Some of them had luggage with them, and I guessed they took off a few days earlier before the Thanks Giving holiday to go back to their home. One of them was with his pet, french bulldog, and she showed us her head from his bag. I and other two passengers around him, the owner of the french bulldog and asked about her, and then chatted for a while. Actually she was so cute and I really enjoyed the time with them, but at the same time, I found, I’ve been accustomed with the way of communicating with others, here in NY. It’s slightly different from that of us Japanese. In Tokyo, we don’t talk with ‘strangers’ so casually at the train or some other public places. This difference may come from the difference of our idea about the ‘public.’ For New Yorkers, public places may be open to ‘everyone,’ where are supposed to be built by themselves, while for Japanese, public places are for ‘no one,’ or owned by someone other than us. We are not supposed to ‘disturb’ the public place such as train, by chatting or laughing with others. It’s not ‘good’ or ‘bad’ matter. It’s just a difference of culture, and their behaviors in public spaces represent only one aspect of each culture. But for me, it is interesting, and somewhat ‘good’ experience to have a sense of being here in NY.

火曜日だが早くも電車がいつもより混んでいた。Thanks Givingの木曜日より少し早めに休みをとって帰省する人たちだろう。ほどほどの大きさのスーツケースや旅行かばんを持っている乗客がそこそこいた。うちの一人が、かわいいフレンチ・ブルドッグをショルダーバッグに入れて連れ歩いていて、バッグのファスナー部分から愛嬌のある顔がひょこりと飛び出てきた。「可愛いですね」なんて言って、僕とあと2人、彼の周りにいた乗客で愛犬を囲んでしばし談笑する。こういう場面に出くわす度に、「あ、ここはニューヨークだな。」なんて感じたりして、そこにだんだんと馴染んでいっている自分を発見する。東京もニューヨークも都会だから、生活の便という意味ではそんなに変わらないのだけど、公共空間でのコミュニケーションは、だいぶ違うものがある。この街の人は、それぞれがてんでバラバラ自由に過ごしていて、でもそれでいて他人に完全に無関心でもなくて、刹那の交わりを楽しむ心の余裕がある。それは深みのある長期的な関係とは別種のものだけど、そういう軽やかなやさしさが街全体に染み渡っていることが、この街の明るさを形作っている一つの要素なんじゃないかと思う。

「背伸び」

 「こないだの休みは何してたの。」
 「部屋でのんびりDVD観てた。」
 あんまり寒いから、何か温かいものでも食べようと、近くの韓国料理屋へ。よく暖房が効いた店内でようやく落ち着き、なんとはなしに近況を話す。
 「歳食った退役軍人のじいさんと隣家の少年の話。ヴィンテージの車が彼の宝物で、話のキモなんだけど、特典映像で監督やスタッフも自分の愛車のこと熱く語っちゃっててさ。」
 「ふーん。男の人ってなんであんなに、所有物で自分を表現したがるの。カッコイイ車を持って、自分の価値も一緒に上がったと勘違いしてるみたい。」
 「君と同じこと、キャストの女の子も言ってたよ。」
 「だいたいの女が同じこと思ってるわよ、きっと。」
 店員が注文を聞きにやってきたので、会話を止めてメニューに目をやる。彼が来るまでに考えときゃ良かった。店内も忙しそうだったので、あんまり待たせちゃ悪いと思い、とりあえず思いついたカルビ焼き肉と蔘鶏湯を注文した。中途半端な向学心で一時期だけ受講していた語学講座のおかげで、ハングルのメニューは読めなくもないんだが、やっぱり解読に時間がかかる。

 「でも今時の男って、そうでもないんじゃない。車で自己表現してる人、あんまり見ないわ。」
 先に来たビールをごくごく飲みながら、思い出したように彼女が話を戻す。
 「手段が変わっただけで、本質は同じだよ。パーティー会場や電脳世界で名刺ジャンケンしてる。車みたいに物質的な重みがないから、損耗も早いけど。」
 「こないだ口説いてきた男もそんなヤツだったわ。僕の部署は出世コースだとかどうでも良いことをつらつらと…あんまり鬱陶しかったもんだからつい、『あたし口説くんならもっと裸でかかってこんかい!』って説教しちゃって。彼、すっかり怖気づいてたわ。私より歳上なのに。」
 「ははは、そりゃ勇ましいな。君みたいな女性が多ければ、世の中もっと捗るだろうね。」
 「そう?殺伐としちゃって大変だと思うけど。」
 確かにそうかも、と苦笑いしながら、僕は店員が持ってきた蔘鶏湯をすすった。

 その男の振る舞いは君を口説く上では確かに悪手だったろうけど、彼以外の男もみんな、多かれ少なかれ鎧や勲章に頼って生きてるんだろうと思う。自信が無いから、色々と着込んで身を固める。女からするとバカみたいって思えるかもしれないけど、分不相応な持ち物に自分の中身を後から追いつかせようと努力して、それで意外と伸びたりもするもので。子どもを産めない分、強くなるための通過儀礼が何度も必要なのかも。面倒くさい生き物だ。
 ただ、何度もそれを繰り返すうちに、手段と目的が転倒して、鎧に取り込まれちゃう男もたくさんいる。僕も例外なく、そういう危うさと常に隣合わせにいる。「君みたいな」と僕が言ったのは、単に気が強いってことじゃなくて、君がいつでも、男の鎧をひっぺがして、ゼロ地点に戻してくれる女性だから。そういうヒトは、なかなかいないよ。

「障害」について。人間のエゴについて。

カテゴリーとしての「障害」とか「障害者」といった言葉に対する適切な距離感は、今でもやはり分からない。
そこに個別具体的な人々が繋がっていて、カテゴリーとして淡々と処理することが出来ないからだ。
それからやはり、偏見というものから、どうしても逃れることが出来ないからだ。

10月、ピッツバーグでOne Young World Summit 2012というグローバルユースサミットに参加してきた。世界180カ国から総勢1,200人の代表団が集まって、数日間を過ごすイベントなのだけど、ゲスト・スピーカーや代表団の一部のスピーカーが、様々な社会課題に対しての意見やアクションについて発信するという内容だった。

2日目のセッションの一つがHealthをテーマとしたもので、とりわけ、障害を持つ人々の機会均等の実現にフォーカスした内容だった。そこで、スピーカーの一人である女性がスピーチをした。彼女はペンシルバニアにある大学の博士課程に所属していて、障害を持つ人々の機会均等やエンパワーメントについての研究や、精力的な課外活動に携わっている。彼女自身も車椅子に乗っていて、呼吸補助器のようなものもつけており、身体障害を抱えていた。

彼女は他のスピーカーと同様に、堂々と力強いスピーチを行った。それでその後、会場ほぼ全員総立ちの、スタンディングオベーションが湧き上がった。一方、初日の他のセッションや、このセッションの他のスピーカーのスピーチの後では、これほどのスタンディングオベーションは起こらなかった。他のスピーカーのスピーチの面白さやレベルが彼女に極端に劣っているわけではなく、同じぐらいのものだったが(僕はそう感じた)、なんだか会場がものすごくポジティブな雰囲気に包まれている。

スピーカーセッションの後には、質疑応答の時間がある。スピーカー以外の参加者たちは、自分の意見を発信しようとみな積極的にフロアーのマイクに列をなす。彼女のスピーチの後も、多くの人が発言していた。僕は、途中で立ち上がって列に入った。

順番が回ってきて、おずおずとマイクの前に立ちながら、会場に質問をした。
“Why did you made such a quick and loud standing ovation, while you didn’t do that yesterday? Was it just because her speech was wonderful… or, was it because she has a disability?”
「あの…みなさん、ずいぶん勢い良くスタンディングオベーションをしてましたけど、昨日はそうでもなかったですよね?その違いは、単純に彼女のスピーチが群を抜いて素晴らしかったからなのか、それとも…彼女が障害を持っているからでしょうか?」

言っちまった。

あの時の凍りついた会場の雰囲気は今でも忘れられない。前後不覚に陥るってこういうことか。思い出すだけで吐きそう。なんでこんな空気読まない発言をしたのだろうか。黙ってりゃいいものを。でも、それが出来なかった。

スピーカーである彼女とか、他の代表団とか、誰か特定の人間を非難したかったわけじゃない。もっと言えば、問いを投げかけたかったわけですらないのかもしれない(一応、下に書くような考えや理由付けが背後にあったと思うけど)。ただただ、あの時の会場の、異様な、「一体感」や「温かさ」が、どうしても気持ち悪くて、彼らに交じってスタンディングオベーションをすることも、その場に黙って座っていることも出来ず、それを吐き出す以外になかった。

この時のエピソードを描写して、そしてなんとかこの違和感の理由付けをしようと整理したのが、先月英語で書いたこちらの記事なんだけど、「そういう体験をしたなら是非日本語のブログにもまとめてみんなに共有して欲しい」と言ってもらっていて、その約束を果たせないまま今日までずるずると引きずってしまった。書こう書こうと思っていたのだけど、その英語のエッセイを読み返すだけでも辛いし、別の言語で書くとなると改めて考えなおさなければならないから、なかなか筆が進まなかった。そもそも、エピソードとしては美しいものでもないし、自分から発信するのはやはり気がひける。今こうして筆をとり直したが、英語記事を書いた当時とまた違う感覚の自分がここに座っているし、正直なところ、この違和感を解消する方途はまだ見えていない。しかしともあれ、サミット当時や、英語記事を書いた当時より先に進もうとするなら、そこからまた始めるしかない。なので、英語記事の主張の要点をなるべく簡潔におさらいしながら、今の自分が感じることを新たに添えて記述していくことにする。時間がある方は、英語記事の方もご参照いただきたい。

英語記事では、「障害」とかそれを持ついわゆる「障害者」と呼ばれる人たちとどう向き合うかということを考えていて、大きく3つの視点で書いた。1つは純然たる個人主義というか、「障害のある無しは関係なく、個人は個人であって、立派な人もくだらない人もいる。だから差別もえこひいきもする余地は無くて、一人ひとりをフェアに見れば良い。」というスタンス。世間的なイメージや評価に引っ張られて勝手にその人を過度に「かわいそう」とか「えらい」とかいう目で見るんじゃなくて、自分との一対一の関係で普通に接しまようということで、僕もなるべくこちら側のスタンスに立ちたくて、なればこそ、彼女のスピーチ後の会場の「不健全」なぐらいの温かさに違和感を覚えて、発言したのだと思う。つまり、他のスピーカーに比して彼女にだけ異様に大きな賞賛を浴びせるのは、逆に「障害者」の彼女に対して手心を加えているようで失礼じゃないのって話。

でも、これってかなり理想主義的で、本当に全ての人間に対してそのスタンスを取れるのか、あるいは取るべきなのかは、甚だ怪しい。

社会から完全に離れた独立の個人というのはフィクションに過ぎなくて、やはり社会的な「課題」としての障害・障害者というカテゴリーの意味や影響力は無視できない。僕も、その他の人々も、障害を持っている人自身も、それぞれが「障害」や「障害者」に対する既存の社会通念に色濃く影響されている。だから、その人の能力やパーソナリティが、障害と「関係ない」と言い切る発想もフィクションに過ぎない。皮肉なことに、心身の障害を含めた「逆境」が、その人を強く美しく成長させるブーストとなることも、往々にしてある(逆に、卑屈になってしまう例もある)わけだし、障害やその他様々なハンディキャップを持っているということは、やはりその人の人生に無視できない影響を及ぼす。

僕が本当に個人主義の立場に迷いなく立てているのならば、周りがスタンディングオベーションをするしないを気にする必要もなく、ただ自分一人が彼女のスピーチの内容に対して感じことをもって満足すれば良いはずだ。会場の雰囲気に違和感を感じた僕自身もまた、「障害」や「障害者」といったカテゴリーに対する世間的なイメージに囚われている。「障害」に対するマイナスイメージの反作用としてあのスタンディングオベーションを捉え、それを「不健全」だと感じる「ひねくれた」僕の心性は、やはり僕自身が彼女や彼女のスピーチ自体を、単独の存在として「フェア」に見つめることが出来ていないことの証拠に過ぎない。その意味では、僕の抱いた「違和感」とあの会場の異様にポジティブな「雰囲気」は、実は裏表の関係に過ぎなくて、僕も彼らも同様に偏見に支配されている。このどうしようもない事実が、辛さの原因の一つ。
(英語の記事を書いた当時の僕はこのことに言及できていない)

英語記事での2つ目の視点として、パブリックな政策課題としての障害問題について書いた。社会の様々な資源(食、医療、交通、仕事etc.)に対するアクセスが、平均的な人たちに比べて極端に制限されている状況に置かれている人というのはやはり存在する。それが、心身の障害と、社会の環境の不備によってもたらされる場合もある。そういう場合には、彼らが人としての尊厳をもって、社会のなかでなるべく自由かつ健やかに生きていけるだけの環境を構築しなければならないし、それを阻む「障壁」は対応すべき具体的な政策課題として現れてくる(だからこそ、スピーカーの彼女も、障害を持つ人々の機会平等やエンパワーメントを目的とした活動に情熱を注いでいるのだろう。)。この観点に立てば、それほど心理的な葛藤は感じないで済むように思える。個人に対して失礼だとかかわいそうだとかいう話ではなくて、全体としての環境を整えましょうという話だから。しかし、そこにもやはり限界がある。政策を決め、実施していく上で使える資源は有限であるし、社会的な課題は心身の障害問題だけではないから、どうしても「何をして、何をしないのか」の優先順位をつけななければならない。もっと言うと、「どの層を救って、どの層を無視するのか」の線引きを余儀なくされる。そうすると結局、個人の話に戻ってくる。実際に政策的に引かれたラインの外側に置かれてしまったら、どうしようもない。完全な平等というのは、やはりフィクションだということになってしまう。

だから結局のところ、不平等というのは偶然だということになる。その人がどんなアドバンテージやハンディキャップを抱えてどんな環境・資源に囲まれているのかというのも生まれた時代と場所の偶然に左右されるし、自分が他人から(ネガティブな偏見含め)どういう風に思われるのかというのも、生まれた時代と場所の社会通念と、その影響を受けた自分の周りの人々の考えに依存するから、これまた偶然の巡り合わせということになる。そしてその偶然の結果としての人生は人の数だけ違うものになるから、自分と他人の間で、どうしても共有出来ない領域、解消し切れない「溝」が存在する。ここに2つ目の辛さがある。残酷さと言っても良い。

全てが偶然に過ぎず、重なり合えないのだとしたら、自分と他人はどう向き合うべきなのか。これが英語記事で書いた3つめの視点であり、記事の結びへと繋がるのだが、それぞれが自分だけにしかない不可避の人生を歩む以外にはないだろうということだ。
僕が、彼女と違って車椅子に乗らずに2本の足でマイクの前に立っていること、彼女が壇上でスピーカーとして発信していること、会場の他のみんながスタンディングオベーションをしていること…それぞれが違う人生を歩んできた結果、今この状況が生まれている。それぞれの経験を共有することも出来ないし、それぞれの思想信条の「溝」が埋まることもない。それならば、「違う」というその立場に立脚して、彼女に対して、会場に対して働きかける以外に僕が出来ることは存在しない。「共感」とか「繋がり」とかが生まれるとしたら、その先にしかあり得ないのではないだろうか。そんなことを英語記事で書いた。

身も蓋もない言い方だが「全員がそれぞれ違う」という究極的な視点に立てば、「障害者」か「健常者」かというカテゴライズも、それら違いのone of themに過ぎなくなり、ここに「平等」な地平が到来する。そこにそれぞれが孤独でユニークな個人として立ち尽くすことで、初めて、社会通念から抜け出た「人間的な」交わりへの道が拓かれるのではないだろうか…そんなことを、最後の希望として抱いている。

しかし、事はそう簡単ではない。不可避の人生を受け容れるという姿勢は、自分の中に様々な巡り合わせの結果として生じた、エゴや偏見も含めて受け容れるということだ。ネガティブな感情、醜い心性も含めて、今現に自分が抱いているものを、自分の人生として抱きしめなければならないということだ。先に書いたような、会場の雰囲気に対する違和感や嫌悪感、障害をもった彼女を偏見混じりに見つめるその心性を、無視するわけにはいかない。この、自分の中にあるエゴの存在こそが、マイクの前で僕に吐き気をもたらした正体なのだろう。

誰もが、美しく生きたいという願いを抱いている。偏見や邪推の無いところで、気持ちよく他者と関わりたいと願っている。しかし、そう願えば願うほど、自分のなかのエゴは、より強烈な存在感をもって腹の底から浮かび上がってくる。このことが、生きること、社会のなかで生きることの、一番の辛さである…

世の中には、全ての人を別け隔てなく、大きな愛で包み込んであげられるようなヒトが、いるのかもしれない。その境地に達することが出来れば、こうした葛藤は融解するのかもしれないけれど、今のところ僕にそんな業は出来そうにもない。だとしたらやはり、現に自分の中に存在する偏見とかエゴを取り出して見つめ、認めたところから出発する以外にとるべき道はない。自分の実感を離れて「偏見なんて持ってないよ。みんな平等!だから全員に拍手!」なんて姿勢は絶対にとれない。そっちの方がよほど彼女や他のスピーカーに失礼だ。サミット当時の僕の発言は、タブースレスレの危ういものだったかもしれないが、しかしたぶんあの時の僕に表現し得るギリギリ最大限の「誠意」だったのだと思う(自己正当化はしたくないが…)。

勿論、スタート地点としての自分の実感や認識が「誤っている」可能性は大いにあって、そしてそれが修正・変化していく可能性も残されている。その結果、より偏見や気後れのそぎ落とされた心性で、他者との関係を結ぶことが出来るようになるかもしれない。ただ、そこに至るためにはやはり、「分からない」「共有できない」「交われない」という現状を正直に開示していくしかない。それぞれが決定的に違う人間であること。そのことを何度も何度も確認していく過程を通っていくことでしか、人は近づいていけないのだろう…

他者と交わり切れない人間の孤独、自分のエゴを直視せざるを得ない気持ち悪さ…

しかしこの孤独とエゴを抱きしめた先にしか、僕が人を真に愛するための道は無いのだろう。。

レジ前の攻防、あるいは

大学近くのスーパーでいつも買い物をするのだが、そこで毎回、ちょっとした葛藤というか、「攻防」が起こる。

レジで会計を済ませる時のことだ。店員が商品をレジに通した先から、レジ終わりの位置に立っている人(少年だったりおばちゃんだったり)が、商品をレジ袋に入れていくのだ。お金を払い終わる頃には商品が全てレジ袋に詰まった状態が出来上がる。それを受け取るのだが、彼らの手元には、小銭を入れる小さなトレイが置いてある。

つまり、そういうことである。

ここでの対応にいつも迷う。”No thank you”といって断り、自分で入れることもあるし、断るタイミングがなかったので御礼を行って釣り銭をトレイに入れることもある。入れてもらって小銭を一銭も払わない、というのは今までなかった。そもそも自分の性格として、商品を袋に入れるのは自分でやりたいというのがある。あと、こっちの人はやたらとレジ袋を2枚3枚重ねにする傾向があって、「そんなに必要ないよ、もったいない」という気持ちもある。これらは彼らの行為を断る理由にはなろう。一方で、毎回かたくなに断るほど重要なこだわりでもないし、やってもらって極端に困る行為でもない。また、釣り銭の10セントや20セント程度なら、さすがにそれを渡すことが自分の生活にとって大きな問題になることもない。だから結局、断るor任せるのどちらか一方に完全に振り切ることも出来ず、毎回逡巡しながらその場その場の結果に落ち着く。

で、いつも考える。彼らがレジ袋に商品を入れて僕らが小銭をトレイに入れるという行動は、
「サービスに対する対価」を支払っているという、ごくごく普通の取引なのか、
それとも、
「貧しい人に対する施し」なのか。

「サービス」と割りきってしまえば、断るも、任せて「代金」を支払うも完全にこちらの自由だし、何も悩むことはないのだが(その時の気分で自分の「購買行動」を決めれば良い)。が、やはりそう簡単にもいかない。どうにも貧困とか施しとかいうワードが頭に浮かんできてしまう。
日本にいる時もこういう話を他人としたことはあるが、だいたいいつも同じ、2つの考え方になる。

少額でも、それをあげることが彼/彼女の一日のパンになるなら良いじゃないか、という立場と、
いっときの気まぐれで個人に小銭を上げたことで社会構造は変わらないのだからナンセンスだ、という立場。
(後者の言説は、しばしば、「施しは偽善だ」というような含みを持って語られる)

あるいは、こういう喩え話を聞いたことがある人もいるかもしれない。
社会起業やら開発援助、あるいは教育の文脈で、
「魚を食べられない貧しい人がいたとして、あなたはその人に魚を釣ってあげますか。
それとも魚の釣り方を教えてあげますか。」
みたいな。後者の方がサステイナブルだからそっちを指向するべきだよね、という主張のために援用されることが多い。

いや、分かるよ、後者の立場の方が「大人」だし「望ましい」答えなんでしょうってことは。
問題は貧困や格差を生み出す構造なのだ!構造を変えることこそが重要なのだ!っていう。
うん、そうそう。でもさ、社会構造って?
その「社会構造」とやらが、今まさに目の前にいる、その人のその日の暮らしをどう左右するというのか
あるいは、その「社会構造」を理由にとった「小銭を渡さない」という行動が、実際に社会構造を変えてくれるというのか。
スタンスとしては分かるけど、魚の釣り方を…みたいな議論や主張は、時間間隔で言えばずいぶんと悠長だ。

かといって、たかだか10セントや20セントの小銭を入れる行為も、その人の人生・社会構造どちらにとってもほとんどインパクトをもたらせない。「無いよりマシ」という表現も生ぬるいぐらいの微量だ。

というわけで結局どちらの立場をとろうが、目の前の個人に対してどう振る舞うべきかの「正解」は出てこない。
また、その時の一回の行動/非行動が、実際に目の前の彼/彼女や社会構造を変革することもない。
じゃあ、結局気持ちや気分の問題か、となる。
そんなわけだから、僕はいつも「どうしよう」となる。

ただ、この議論は結局自分たちの側からやいのやいの考えてるだけの話であって、
相手の立場は考慮に入れていない。
では、レジ前に立つ彼ら自身はどういうつもりなのだろうか。
いや、それも結局分からないのだけど。
でも、少し想像してみれば、
自分たちの側からだけこの「問題」を考えてしまうことによる不遜さは、ある程度自覚出来るかもしれない。

彼らの側からしたら、僕のその葛藤なんぞ知ったこっちゃないんじゃないか。

彼らは毎日そこに立っているわけで、僕は1日中来るお客さんたちのone of themに過ぎない。
僕から小銭を受け取れようが受け取れまいが、それは誤差の範囲に過ぎないんじゃないか。
もちろん、50セントや1ドルのお金が、彼らにとってその日の生命線となる可能性だってあるのだろうけど、
「今ここで彼に施すか否かが彼の人生や社会にとって云々…」なんて悩みは、彼らからしたらたぶん「余計なお世話」だろう。
その悩みが実際に彼らの生活や社会を変え得ない以上、余裕がある人の「呑気」な悩みとしか言いようがないし、
「次が詰まってるんだから、払うなら払う、払わないなら払わないで、とっとと商品持って外行け」ってぐらいなもんかもしれない。

と言っても、これらも所詮想像の域を出ず、相手の心境(人によっても違うだろうし)を知る由は無い。

しかし少なくとも、「社会問題」の衣に包んだ僕ら有閑階級の議論や悩みは、相当呑気なものだということは分かる。
僕らは貧困や格差すらも物語的に消費しかねないのだということが自覚されてくる。

さて、ここでまた、どうするか。

本人不在の議論が何の役にも立たないことは分かりきっている。
なればこそ行動が大事だと、様々な慈善活動や事業活動に精力と情熱を注ぐ人たちも現れるのだろう。
それはそれでとても大切で、必要なことだと思う。
しかし先にも述べた通り、それが社会構造を変えるにはものすごく時間がかかるし、
仮に社会構造を変えたとしても、その恩恵が個別具体事例としての彼/彼女に届くどうかは、偶然の巡り合わせでしかない。
だからやはり、僕やその他の立派な人々が、社会的にどんな重要な使命を果たしていようといまいと、
こういう出来事や相手とのエンカウントは避けられない。

ここまで書いて、筆が進まなくなった。
つまり、そういうことなのだろう。
どん詰まりに立て、と。
物語としての安易な消費に堕したくないのなら、
あるいは機械のように割り切った作業として処理したくないのなら、
彼/彼女に出会うその都度その都度、どん詰まりの矛盾とエゴで己を刺せと。

それすらもやっぱり、勝手な自分の話でしかないのだけど。

水を注ぎ合うこと

今年の6月に高知の室戸で参加した、西村佳哲さんのワークショップのことを思い出し、
今日、当時とっていたノートを読み返していた。
(前のブログでも、感想記事を一度書いた。リンクはこちら。)

「きくこと」を主眼に置いたワークショップで、
参加者同士でインタビューやダイアログを繰り返しながら、
西村さんに手ほどきを受けた。
(手ほどき、というよりもっとさり気なく、やさしいものだったから、違う表現の方が適切かもしれない…)

そこでは、相手の話をきく時に「先回りをしない」ということが何度も強調されて、
以来、そのことは特に気をつけている。
相手がまだ言葉を出し切っていないときに、
「それってこういうこと?」と勝手な推論で答えを提示したり誘導したりすると、ズレが生じてしまう。
仮にその先回りが大まかには相手の思うところと合っていたとしても、
相手の発話を途中で回収してしまうと、
相手の内側から今まさに芽生えようとする生命のうごめきを、じっくり待たないといけない

おかげでリアクションの質やテンポはだいぶ変わってきたように思う。
(ディスカッションとディベートが盛んなアメリカの文化に身を置いて、
そのテンポとリズムを保つのはなかなか大変だけど…)

ただ最近、「相手の話をきく」ということを意識し過ぎていたのか、
少し、無理が出ていたのかもしれない。
「なんでもきくから、なんでも言って」というスタンスに拘泥し過ぎて
かえってズレが起こったり、疲れちゃったりすることがあった。

そこで、「先回りをしない」という原則は、
相手の先回りをしないというだけでなく、
自分の先回りをしない、ということでもあるのだな、と気付いた。
相手に気を遣うあまり、自分を置いてけぼりにしてはいけないということ。

 

 

ワークショップを行うにあたり3つの原則を教わった。
その1つが上述の「先回りしない」だが、
2つ目は、「安易に了解しない」ことだというのを思い出した。

分からないときに、「分からない」という返事をする。
「水を差す」というか、立ち止まるための「分からない」のサイン。
これってけっこう勇気が要ることなのだけど、
これを遠慮して、「なるほど、分かります」という反応を積み重ねてしまうと、
そのうち自分の方に違和感が溜まっていって、これもズレの原因になる。

これはどうして起こるかって、
心が腑に落ちるまで相手の言葉を馴染ませることなく、
頭での「理解」を先行させているからだと思う。

そういう時のコミュニケーションは、たとえ表面的には順調に見えても、
心のなかでは混乱のさざ波が収まっていないから、終わってみると、なんかしんどかったりする。
奥の方にある自分の心を、物分かりの良い「自分」が先回りしているからで、
これは相手の発話への先回りと同じ構造だ。

そうならないように、相手を意識しつつも、自分のことももうちょっと大事にしてみる。
「分からない」と素直に伝えたり、逆に相手に質問してみたり。
すると、相手もまた違った言葉を展開してくれる。
そうこうするうちに、実は語り手にとってもよく分かっていなかった、ということが見つかったりもする。
そういう時は、相手にも吃りや口ごもりが生じる
あるいは、言葉を見失って沈黙が訪れる。

沈黙が生まれると、対話が停滞してしまったように感じ、不安になるけど、
でも実はその時間が、二人の対話において最も大事な時間なのかもしれない。
沈黙している時間というのは、お互いがもう一度自分の内側に潜っている時間、
心の奥底にあるほんとの気持ちを探り当てようとしている時間だから。

西村さんが提示された3つ目の原則は、「沈黙を怖れない」というものだった。
沈黙が訪れても、それをネガティブな「失敗」ととらえない。
焦ることなく、しっくりくる言葉が見つかるまで待つ。

対話とは、沈黙と発話の、そのあいだを、何度も何度も行ったり来たりするプロセスそのものではないだろうか。
プロセスが本質であるとしたら、結果として何が得られたか、何が分かったかなんてことは瑣末な問題になる。

いや、そもそも、「分かる」「分かった」というのは、そんなに簡単な、単純なことなのだろうか…

「分かる」というのは、おそらくその字のとおり、「分かたれる」ということです。話しているうちに気持ちが一つになる、同じになるというよりも、むしろ逆に、一つの言葉に込められたものの意味や感触がそれぞれに異なること、相手との差異・隔たりがいよいよ細かく見えてくるということです。「分かる」というのは、そのことを思い知らされることでもあるはずです。
『語りきれないこと―危機と痛みの哲学』 鷲田清一 pp.36-37

対話を通じて相手に接近しているように思えるそのプロセスは、
むしろ、相手と自分との距離・違いを再確認すること、
あるいはより高い解像度で自分と相手を認識出来るようになることに過ぎないのかもしれない。

対話を通じて相手と交わることは、
どれだけ頑張っても相手と混ざり切らない、重なり切らないという
事実の再確認に過ぎないのかもしれない。

それって、悲しいことなのだろうか?

うまく説明できないけど、決してそうではないと、僕は思う。

一致しないからこそ、差異がより細かく見えてくるからこそ、
自分と相手を、より大切にすることが出来るはずだから。

わたしたちにはだから、待つことしかできないのです。いや、待つことしかできないのではなく、待つことができるのです。待ちながらときに体をもぞもぞさせたり、伸びをしたり、ふと傍らの体に手を当てたりすることはできます。
(中略)
「分かる」ということが起こらなくても、異人のままでいいのです。いや、異人のままがいいのです。
同 p.186

自分と他人がどこが同じでどこがどう異なっているかなんて、そう簡単には分からない。
でもそれは、相手もきっと同じことなのだ。
だから、時間をかけて、何度も何度も対話を重ねる。

待って、聴いて、反応して、それをお互いに何度も繰り返して…
分かりっこなくても、ひとつになれなくても、
異人として共にあること、隣ること。
喜んで時間を差し出し合うこと。

一回一回が二度と来ない新鮮で貴重な時間。
でも、そこで焦ってはいけない。
「二度と来ないのだから、ここでしっかり理解して決着をつけないと」
なんて、思う必要はない。
そう簡単に分かりっこないのに、勝手に結論を出すなんて、
相手の心にも自分の心にも失礼だから。

心を置いてけぼりにしない。その時々の心の声に耳を傾けて、そのままのテンポで進んでいくこと。

 

 

「そんなにものわかりよくなくていいんだよ」

 

以前、その言葉を贈った相手に、同じ言葉をもらった。
それで、少し楽になった。

 

対話の一回性。
二度と来ない時間。
その都度その都度、開いては閉じる花。
(うまく開かないまま終る時すらある)

 

だけど…
「今日はありがとう。でもごめん、やっぱりまだ分からない。だから、もっとききたい。また今度…」
なんて言葉を、素直に伝えられたなら、「もう一度」の可能性が生まれてくる。
そして、未来の「もう一度」の時には、お互いもっとやさしくなれる。
もっとやさしく水を注いであげられる。

「熱」

午前の授業を終えて外に出た

雨が降っている

傘が無いので困ったなと思った
しかしそれはよく見ると…雪だった

雨やみぞれと見紛うほどの、融点ギリギリ、ごくごく小さな粒だったが、
それらは確かに、雪だった

雪だ!雪が降っている!

この瞬間をどう表現したらいいだろう
なぜだか僕の心はこの時一気に、跳ね上がったのだ

冬だ!冬が来たんだ!

季節は変わる、時間は流れる、すべては循環する
じきにまた、新しい年がやってくる
苦しみも悲しみも、永遠に続くことは決してない

そして僕は今、生きている!
今まさに、生まれ変わりながら生き続けている!

あっという間に雪と風は勢いを増し、
もはや違うことなき雪としての、
大きさと、速さと、白さを見せていた

吐く息はすでに白く、
手もかじかむ一方、
僕の心は希望と熱情で燃え上がっていた
雪が降る、その中を生きている
たったそれだけのことが、とても嬉しくて
泣きそうな笑顔で、季節を抱きしめた

Diary: 11/8/2012 Thu.

Winter has come! When I got out of the building after the morning class, I found it is snowing. Soon it became the heavy storm. My umbrella was broken. Many people seemed surprised and feeling terrible. But…though it may sound strange, I felt excited. Feeling of changing the season gave me realized the natural thing, time passes and nothing continue forever. I still have heaby exams and homework on Thursday and Friday, but I can believe it will end soon…

雪が降った。こっちに来て初めてだ。季節は変わる。時間は流れる。ほっとした。

今日もほとんど休みなく朝から朝まで。水曜日は授業が多いのだが、それが終わったあと自宅自主受験の形(台風で振替になったため)の試験を解き、宿題を済ませた。その後、木曜日のランチタイムで話す予定のプレゼン資料づくりと練習をしたらもうこんな時間になった。今週はとてもヘビーだが、不思議と集中力と体力が続いている。やれば出来るものだ。自分の力を信じよう。怠惰を乗り越えよう。何より、自分を信じてくれている人を信じよう。

Diary: 11/6/2012 Tue.

Today is the national election day, and our school is closed. Obama won the election. But unfortunately I didn’t have time and capacity to enjoy watching TV or going to party because of homework and exam study. I stayed at library all day long. However, I don’t feel sorry not to be involved in the excitement of the election. Even though it is publicly, politically socially and historically important event, doing what I should do today is also important for ‘me.’ Well, exam is coming, but it’s not special. I just do my best every day, and results will come later.

大統領選のため学校は休み。課題と試験勉強で余裕がなくて、テレビを見たりパーティーに参加したりはできなかったけど、それを残念には思わない。社会的には大変重要な選挙なのだろうけど、今日この日やるべきことをやり、一日を全力で生き切ることが、僕自身にとってはその大きな社会に劣ることなく、重要なことなんだ。

実際のところ今日やるつもりだった勉強の範囲ほどは進まなかった。明日もうちょっと頑張らなきゃ。あと、今このブログを書いているのは早朝4時半だけど、寝る時間を少なくして補填している。木曜日のランチタイムに、東北、石巻・牡鹿でのプロジェクトを紹介する機会をいただいていて、一日の大半がそれのプレゼン資料作成と、それから、恋人とのスカイプで過ぎたのだ。でもそれは、僕にとってもっと優先度の高い、大切な時間の使い方だから、仕方ない。

とっても大切なメールが、不具合で届いていなかったということが判明。お互い誤解していたのが解けたのだけど、どうにもやるせない。文明を過信し過ぎてはならんなぁ。こういうアクシデントも織り込み済みで、心を通わせていくためには、ゆっくりじっくり相手の声をきくことが必要だ。

出逢いや変化を、偶然と必然どちらだととらえるのかって話がある。事実じゃなくて、態度とか信念の問題として。だからあまり厳密な理論の話じゃないよ、これ。最近は、偶然と必然は表裏一体の関係にあって、実態は同じじゃないのかと感じている。生まれてからその人に出逢うまで、あるいは自分が大きく変わる劇的な場面や経験に出くわすまで、一瞬一瞬が偶然のサイコロ投下の繰り返し。無限に広がる選択肢と道筋のなかから、それぞれが結局一つだけのパターンを辿ってこの世を過ごしている。そんな偶然の積み重ねの重なり同士が出逢って交わるということは、確率で言えば恐ろしく小さな数字になるだろう。だからそれはものすごい偶然だ、とも考えられるのだけど、そんな針の穴を通すような道筋が交わるなんて、運命としか言えないだろう、と裏側から考えることも出来る。だから、捉え方の違いだけ、とも言えるだろう。

ただ世の中には、時たま特別な力や先見性を持っている人がいて、そんな人は「出逢うこと、交わることは運命として分かっていた」などと言うこともある。僕には分からないけど、そういう人達からしたら、そちらが真なのかもしれない。ただやはりそう言われても、僕にとってはどちらでも良いというか、未だその出逢いを偶然と捉えるか、必然と捉えるか、認識の自由を担保されている。事実ではなくて態度の問題として考えれば、僕がどう納得するか、の話だから。

その話で言うと僕は、やっぱり偶然というものに感謝したい。先のことが分からないごく普通の人間にとっては、あらゆる未知に対して自分の心と身体と頭でもって、出来うる限りの準備・研鑽を重ねながら日々を過ごす以外には出来ることはない。その人にとっては「結果」や「運命」は実際にやってくるまで「見えない」から。でも、たとえその結果が、「マクトゥーブ」ーすでに書かれていたことだとしても、ただ何も考えずにやってくるのを待つよりは、日々余念なく準備を積み重ねた上でその時を受け止める方が、本人にとってはずっと価値があることだ。
道の途上では無駄な努力や判断の誤りもあるだろう(あるいはそういう過ちすらも織り込み済みの運命と申されるか)が、偶然の積み重ねのように見えるその道筋が、プロセスこそが、僕にとってはこの上なく愛おしい。

運命の女神フォルトゥーナに相対するは、人間のヴィルトゥ。

Diary: 11/5/2012 Mon.

The most toughest week after starting the semester at Mailman. Due to the Hurricane, we have 5 homework and 2 exams this week! Exams are on Wednesday and Friday, but we are also extremely busy with other day for the preparation of the exams and heavy homeworks. However, I must not give up. I must not be panic. Though getting nervous feeling, have a cool mind that seek the best way of using my time. Today, we finished two of the homeworks. It makes me a little relieved. Tomorrow the school is closed because of the national election day. I have to work on exam study all day long.

朝、冬の冷たい空気が肌を刺す。ひんやりとして、寒いけど、気持ち良い。身と心が引き締まる。それから、今日はいい天気で、青空が綺麗だった。

ハリケーンの影響で、試験が2つに宿題が5つ同じ週に入るという、今までで一番大変な状況になっている。正気の沙汰と思えない分量だまた、自分が苦手な科目であるUS health systemsの試験はエッセイ形式で非常に難しいものになるという。が、なんとか乗り切るしかない。ヤケになったらその時点で負けだ。課題や試験ごとに、範囲や難易度も違い、それによって自分がかけるべき時間も費用対効果も変わってくる。冷静に優先順位を見極めなければならない。パーフェクトに全て満点というわけにはいくまい。サバイバルモードで乗り切ろう。今日は宿題が2つ終わったので少しだけ気が楽になった。一日一日が大切だ。明日は大統領選挙で学校が休み。朝~晩まで、がんばろう。

生き直しを。一日を素直に、ただただ全身で生きてゆくこと。

平常心を保てないなら 物事を現象としてとらえよう 楽しいから笑うのではなく 笑うから楽しくなる (集まろう for tomorrow by YUKI)

なるほど、YUKIの言うことは正しい。勿論楽しいから自然と笑う、というのが一番なのだけど。

鏡を見て、ずいぶんと引きつった表情をしているのが分かる。笑顔をその場でつくってみるが、どうにも不自然だ。一日のうちにしばしば、頭や手先の痺れ、動悸息切れ、吐き気、胃腸の暴れを感じる。よく泣きそうになる。

心の動きを素直に受け止めることが一方で大切とはいえ、落ちている時はあまりに心のままに任せるのもよろしくない。人間の身体と心と頭は相互に影響し合っていて、心があまり落ち込むと、身体も弱ってくる。最後は頭でもネガティブなことばかり考えるようになる。ただ逆に言えば、一方が弱っているとき、無事な他方でもって引っ張ってあげることもある程度は可能なのだ。心が弱っている時は、その根本的な原因を解決しなければ最後はどうしようもないが、それでも、ある程度身体と頭で引っ張ってあげることで心も元気になったり、あるいは課題と向き合うだけの最低限のキャパシティが戻ってきたりする。

今は、心が弱っていて、身体も引っ張られている状態。でも、まだ大丈夫、頭が無事。人間の武器、理性が残っている。乱れている自分の状態を冷静に観察し受け止めること。自分がコントロール出来るところから対応していくこと。心と身体を、理性で支えてあげるんだ。

クラスメイトに自分から声をかけて朝の挨拶をした。まだ引き攣っているかもしれないが、英語文化のおかげで、日本語の時より英語で話す方が明るくなれている気がする。昼休みには、仲の良い友達(not only ‘classmate’)とバカな話をしてたくさん笑った。少し楽になった。自分から笑う機会を頭でつくっていくんだ。そのうち心も、ついてくるよ。

昨日立てた1週間の予定にしたがって、一日一日の予定を確実に片付けていく。今日の次は明日、その次は…と一歩ずつ。

家に帰って、かぼちゃご飯とお味噌汁をつくって食べた。出来上がるのを待っている間にいれて飲んだお茶が、本当に美味しくて、思わず泣いてしまった。今までで一番美味しいんじゃないかってぐらい、今の自分には染み渡るものだった。ほっとした。湯呑みもお茶っ葉も、出国前の餞別でいただいたもの。ありがとうございます。

いつも僕を見守り、支え、応援してくれて、こうしてNYまで送り込んでくださったみなさま、本当に有難うございます。勉強の合間、これまでの色んなことを、ふと思い出します。言ってくれた本人にとってはごく自然な何気ない言葉かもしれないけど、それが今の僕をどんなに支えてくれていることか計り知れません。与えてもらってばかりでかたじけないですが、いつか必ず追いついて、恩返しいたしますので、どうぞ見守っていてください。

僕は、もっともったたくさんの痛みを背負って生きている人を知っている。大丈夫。まだまだやれる。生きてる。

Diary: 11/4/2012 Sun.

Overwhelmed with too many readings, assignments and exams this week. Schedules have been modified to complement missing classes during the Sandy holidays. Have to manage myself to survive…

ただただ思うのは、もっと人を愛せるようになりたい。
畏れの無い、直き心で。
求めるのでなく、与えられるように。