カテゴリーとしての「障害」とか「障害者」といった言葉に対する適切な距離感は、今でもやはり分からない。
そこに個別具体的な人々が繋がっていて、カテゴリーとして淡々と処理することが出来ないからだ。
それからやはり、偏見というものから、どうしても逃れることが出来ないからだ。
*
10月、ピッツバーグでOne Young World Summit 2012というグローバルユースサミットに参加してきた。世界180カ国から総勢1,200人の代表団が集まって、数日間を過ごすイベントなのだけど、ゲスト・スピーカーや代表団の一部のスピーカーが、様々な社会課題に対しての意見やアクションについて発信するという内容だった。
2日目のセッションの一つがHealthをテーマとしたもので、とりわけ、障害を持つ人々の機会均等の実現にフォーカスした内容だった。そこで、スピーカーの一人である女性がスピーチをした。彼女はペンシルバニアにある大学の博士課程に所属していて、障害を持つ人々の機会均等やエンパワーメントについての研究や、精力的な課外活動に携わっている。彼女自身も車椅子に乗っていて、呼吸補助器のようなものもつけており、身体障害を抱えていた。
彼女は他のスピーカーと同様に、堂々と力強いスピーチを行った。それでその後、会場ほぼ全員総立ちの、スタンディングオベーションが湧き上がった。一方、初日の他のセッションや、このセッションの他のスピーカーのスピーチの後では、これほどのスタンディングオベーションは起こらなかった。他のスピーカーのスピーチの面白さやレベルが彼女に極端に劣っているわけではなく、同じぐらいのものだったが(僕はそう感じた)、なんだか会場がものすごくポジティブな雰囲気に包まれている。
スピーカーセッションの後には、質疑応答の時間がある。スピーカー以外の参加者たちは、自分の意見を発信しようとみな積極的にフロアーのマイクに列をなす。彼女のスピーチの後も、多くの人が発言していた。僕は、途中で立ち上がって列に入った。
順番が回ってきて、おずおずとマイクの前に立ちながら、会場に質問をした。
“Why did you made such a quick and loud standing ovation, while you didn’t do that yesterday? Was it just because her speech was wonderful… or, was it because she has a disability?”
「あの…みなさん、ずいぶん勢い良くスタンディングオベーションをしてましたけど、昨日はそうでもなかったですよね?その違いは、単純に彼女のスピーチが群を抜いて素晴らしかったからなのか、それとも…彼女が障害を持っているからでしょうか?」
言っちまった。
あの時の凍りついた会場の雰囲気は今でも忘れられない。前後不覚に陥るってこういうことか。思い出すだけで吐きそう。なんでこんな空気読まない発言をしたのだろうか。黙ってりゃいいものを。でも、それが出来なかった。
スピーカーである彼女とか、他の代表団とか、誰か特定の人間を非難したかったわけじゃない。もっと言えば、問いを投げかけたかったわけですらないのかもしれない(一応、下に書くような考えや理由付けが背後にあったと思うけど)。ただただ、あの時の会場の、異様な、「一体感」や「温かさ」が、どうしても気持ち悪くて、彼らに交じってスタンディングオベーションをすることも、その場に黙って座っていることも出来ず、それを吐き出す以外になかった。
この時のエピソードを描写して、そしてなんとかこの違和感の理由付けをしようと整理したのが、先月英語で書いたこちらの記事なんだけど、「そういう体験をしたなら是非日本語のブログにもまとめてみんなに共有して欲しい」と言ってもらっていて、その約束を果たせないまま今日までずるずると引きずってしまった。書こう書こうと思っていたのだけど、その英語のエッセイを読み返すだけでも辛いし、別の言語で書くとなると改めて考えなおさなければならないから、なかなか筆が進まなかった。そもそも、エピソードとしては美しいものでもないし、自分から発信するのはやはり気がひける。今こうして筆をとり直したが、英語記事を書いた当時とまた違う感覚の自分がここに座っているし、正直なところ、この違和感を解消する方途はまだ見えていない。しかしともあれ、サミット当時や、英語記事を書いた当時より先に進もうとするなら、そこからまた始めるしかない。なので、英語記事の主張の要点をなるべく簡潔におさらいしながら、今の自分が感じることを新たに添えて記述していくことにする。時間がある方は、英語記事の方もご参照いただきたい。
*
英語記事では、「障害」とかそれを持ついわゆる「障害者」と呼ばれる人たちとどう向き合うかということを考えていて、大きく3つの視点で書いた。1つは純然たる個人主義というか、「障害のある無しは関係なく、個人は個人であって、立派な人もくだらない人もいる。だから差別もえこひいきもする余地は無くて、一人ひとりをフェアに見れば良い。」というスタンス。世間的なイメージや評価に引っ張られて勝手にその人を過度に「かわいそう」とか「えらい」とかいう目で見るんじゃなくて、自分との一対一の関係で普通に接しまようということで、僕もなるべくこちら側のスタンスに立ちたくて、なればこそ、彼女のスピーチ後の会場の「不健全」なぐらいの温かさに違和感を覚えて、発言したのだと思う。つまり、他のスピーカーに比して彼女にだけ異様に大きな賞賛を浴びせるのは、逆に「障害者」の彼女に対して手心を加えているようで失礼じゃないのって話。
でも、これってかなり理想主義的で、本当に全ての人間に対してそのスタンスを取れるのか、あるいは取るべきなのかは、甚だ怪しい。
社会から完全に離れた独立の個人というのはフィクションに過ぎなくて、やはり社会的な「課題」としての障害・障害者というカテゴリーの意味や影響力は無視できない。僕も、その他の人々も、障害を持っている人自身も、それぞれが「障害」や「障害者」に対する既存の社会通念に色濃く影響されている。だから、その人の能力やパーソナリティが、障害と「関係ない」と言い切る発想もフィクションに過ぎない。皮肉なことに、心身の障害を含めた「逆境」が、その人を強く美しく成長させるブーストとなることも、往々にしてある(逆に、卑屈になってしまう例もある)わけだし、障害やその他様々なハンディキャップを持っているということは、やはりその人の人生に無視できない影響を及ぼす。
僕が本当に個人主義の立場に迷いなく立てているのならば、周りがスタンディングオベーションをするしないを気にする必要もなく、ただ自分一人が彼女のスピーチの内容に対して感じことをもって満足すれば良いはずだ。会場の雰囲気に違和感を感じた僕自身もまた、「障害」や「障害者」といったカテゴリーに対する世間的なイメージに囚われている。「障害」に対するマイナスイメージの反作用としてあのスタンディングオベーションを捉え、それを「不健全」だと感じる「ひねくれた」僕の心性は、やはり僕自身が彼女や彼女のスピーチ自体を、単独の存在として「フェア」に見つめることが出来ていないことの証拠に過ぎない。その意味では、僕の抱いた「違和感」とあの会場の異様にポジティブな「雰囲気」は、実は裏表の関係に過ぎなくて、僕も彼らも同様に偏見に支配されている。このどうしようもない事実が、辛さの原因の一つ。
(英語の記事を書いた当時の僕はこのことに言及できていない)
*
英語記事での2つ目の視点として、パブリックな政策課題としての障害問題について書いた。社会の様々な資源(食、医療、交通、仕事etc.)に対するアクセスが、平均的な人たちに比べて極端に制限されている状況に置かれている人というのはやはり存在する。それが、心身の障害と、社会の環境の不備によってもたらされる場合もある。そういう場合には、彼らが人としての尊厳をもって、社会のなかでなるべく自由かつ健やかに生きていけるだけの環境を構築しなければならないし、それを阻む「障壁」は対応すべき具体的な政策課題として現れてくる(だからこそ、スピーカーの彼女も、障害を持つ人々の機会平等やエンパワーメントを目的とした活動に情熱を注いでいるのだろう。)。この観点に立てば、それほど心理的な葛藤は感じないで済むように思える。個人に対して失礼だとかかわいそうだとかいう話ではなくて、全体としての環境を整えましょうという話だから。しかし、そこにもやはり限界がある。政策を決め、実施していく上で使える資源は有限であるし、社会的な課題は心身の障害問題だけではないから、どうしても「何をして、何をしないのか」の優先順位をつけななければならない。もっと言うと、「どの層を救って、どの層を無視するのか」の線引きを余儀なくされる。そうすると結局、個人の話に戻ってくる。実際に政策的に引かれたラインの外側に置かれてしまったら、どうしようもない。完全な平等というのは、やはりフィクションだということになってしまう。
だから結局のところ、不平等というのは偶然だということになる。その人がどんなアドバンテージやハンディキャップを抱えてどんな環境・資源に囲まれているのかというのも生まれた時代と場所の偶然に左右されるし、自分が他人から(ネガティブな偏見含め)どういう風に思われるのかというのも、生まれた時代と場所の社会通念と、その影響を受けた自分の周りの人々の考えに依存するから、これまた偶然の巡り合わせということになる。そしてその偶然の結果としての人生は人の数だけ違うものになるから、自分と他人の間で、どうしても共有出来ない領域、解消し切れない「溝」が存在する。ここに2つ目の辛さがある。残酷さと言っても良い。
*
全てが偶然に過ぎず、重なり合えないのだとしたら、自分と他人はどう向き合うべきなのか。これが英語記事で書いた3つめの視点であり、記事の結びへと繋がるのだが、それぞれが自分だけにしかない不可避の人生を歩む以外にはないだろうということだ。
僕が、彼女と違って車椅子に乗らずに2本の足でマイクの前に立っていること、彼女が壇上でスピーカーとして発信していること、会場の他のみんながスタンディングオベーションをしていること…それぞれが違う人生を歩んできた結果、今この状況が生まれている。それぞれの経験を共有することも出来ないし、それぞれの思想信条の「溝」が埋まることもない。それならば、「違う」というその立場に立脚して、彼女に対して、会場に対して働きかける以外に僕が出来ることは存在しない。「共感」とか「繋がり」とかが生まれるとしたら、その先にしかあり得ないのではないだろうか。そんなことを英語記事で書いた。
身も蓋もない言い方だが「全員がそれぞれ違う」という究極的な視点に立てば、「障害者」か「健常者」かというカテゴライズも、それら違いのone of themに過ぎなくなり、ここに「平等」な地平が到来する。そこにそれぞれが孤独でユニークな個人として立ち尽くすことで、初めて、社会通念から抜け出た「人間的な」交わりへの道が拓かれるのではないだろうか…そんなことを、最後の希望として抱いている。
しかし、事はそう簡単ではない。不可避の人生を受け容れるという姿勢は、自分の中に様々な巡り合わせの結果として生じた、エゴや偏見も含めて受け容れるということだ。ネガティブな感情、醜い心性も含めて、今現に自分が抱いているものを、自分の人生として抱きしめなければならないということだ。先に書いたような、会場の雰囲気に対する違和感や嫌悪感、障害をもった彼女を偏見混じりに見つめるその心性を、無視するわけにはいかない。この、自分の中にあるエゴの存在こそが、マイクの前で僕に吐き気をもたらした正体なのだろう。
誰もが、美しく生きたいという願いを抱いている。偏見や邪推の無いところで、気持ちよく他者と関わりたいと願っている。しかし、そう願えば願うほど、自分のなかのエゴは、より強烈な存在感をもって腹の底から浮かび上がってくる。このことが、生きること、社会のなかで生きることの、一番の辛さである…
*
世の中には、全ての人を別け隔てなく、大きな愛で包み込んであげられるようなヒトが、いるのかもしれない。その境地に達することが出来れば、こうした葛藤は融解するのかもしれないけれど、今のところ僕にそんな業は出来そうにもない。だとしたらやはり、現に自分の中に存在する偏見とかエゴを取り出して見つめ、認めたところから出発する以外にとるべき道はない。自分の実感を離れて「偏見なんて持ってないよ。みんな平等!だから全員に拍手!」なんて姿勢は絶対にとれない。そっちの方がよほど彼女や他のスピーカーに失礼だ。サミット当時の僕の発言は、タブースレスレの危ういものだったかもしれないが、しかしたぶんあの時の僕に表現し得るギリギリ最大限の「誠意」だったのだと思う(自己正当化はしたくないが…)。
勿論、スタート地点としての自分の実感や認識が「誤っている」可能性は大いにあって、そしてそれが修正・変化していく可能性も残されている。その結果、より偏見や気後れのそぎ落とされた心性で、他者との関係を結ぶことが出来るようになるかもしれない。ただ、そこに至るためにはやはり、「分からない」「共有できない」「交われない」という現状を正直に開示していくしかない。それぞれが決定的に違う人間であること。そのことを何度も何度も確認していく過程を通っていくことでしか、人は近づいていけないのだろう…
他者と交わり切れない人間の孤独、自分のエゴを直視せざるを得ない気持ち悪さ…
しかしこの孤独とエゴを抱きしめた先にしか、僕が人を真に愛するための道は無いのだろう。。