[Event] Students Speak Out: Hope in the Face of Disaster at Columbia Univ. on 23rd November Sat.

I will attend a panel discussion event on 23rd November Saturday from 2pm-5pm at Columbia University. If you are interested in post-disaster activities in Northern East of Japan, hit by tsunami in 2011 March, or more generally disaster relief/management field and practice, please join us!

Here are event description and a Flyer.

Consortium for Japan Relief (CJR) would like to invite you to our Fall 2013 event: “Students Speak Out: Hope in the Face of Disaster.” We will have a panel of 4-5 students, with varying experiences in natural disaster recovery efforts, speak on a number of topics. Our panel speakers have had experiences in Fukushima, Japan, New York, NY, and Joplin, Missouri.

We hope that this event will not only showcase the meaningful and impressive initiatives CU students are involved in, but also stimulate dialogue about the similarities and differences between disaster recovery efforts in different countries and situations. Especially in light of the recent typhoon in the Philippines, CJR believes that such discussion and exchange of know-hows and experiences are crucial.

The event will take place from 2-4pm on Saturday, November 23rd in Room 403, Kent Hall, Columbia University. An informal reception will follow.

CJR_November_Poster

Reference:
Consortium for Japan Relief (CJR) website
http://nyjapan311.org/
My speech at a symposium held by CJR on 10th March 2013.
https://yuheisuzuki.wordpress.com/2013/03/25/speech_symposium_ny_japan_311_tohoku_disaster/
Nishimiya Fellows Program, through which I visited and stayed in Fukushima this summer.
http://nishimiyafellowsprogram.org/
OCICA, an craft brand made by local women in Miyagi prefecutre after the disaster, my first project after graduation of collage and after disaster.
http://www.spoon-tamago.com/?s=ocica

Leaders coming to NYC from Tohoku / 希望も可能性もまだまだそこかしこにあるなということとか

13th November, Wednesday 2013

Still having lots of work, packing materials for that works, I rushed out Brooklyn in the afternoon, and went to Midtown East, Japan Society. It’s also chilly cold today. I’ll take a overnight bus to Boston tonight. Boston must be much colder, I don’t wanna think about it. Anyway, today, 5 leaders who are dedicating themselves to business and community development in Northern East of Japan after the disaster in 2011 came to Japan Society, and talked about their projects and stories to New Yorkers. I was invited to the meeting and had discussion with them. It is as usual and no longer I surprise, but we had lots of mutual friends in near fields. Also a person who guided the leaders was my friend from college. Well, it still needs time, money and man powers to reconstruct cities damaged by tsunami as a whole, but if we work from a micro, specific issue or field, we can make a good project or business quickly and flexible. People, products and stories can spread across countries over the sea, and we can collaborate together. Still not enough, and still it looks like tiny changes, but every time, social or structural renovation starts from small changes. Today, I also had good conversations and made new relationships. Further ideas are already floating in my head.

ジャパン・ソサエティにお招きいただいて、東北で事業に取り組んでいるリーダー5名のお話を聞いて、その後懇談をした。福島や雄勝や気仙沼や仙台や陸前高田の話。農業であったり学校であったり椿オイルであったり起業支援であったりコミュニティカフェであったり。ご多分に漏れず間に共通の友人知人はわんさかいたわけですが、今回の5人の方々と直接お会いするのは初めてで、お話を出来てよかった。今日に限った話でもなくて、NYや大学内の色んな機会でお話させていただく際の反応でも感じるけど、具体的な人や土地の名前、表情が海外に伝わる機会は、原発事故とかのニュースに比べるとやっぱり少なくて、そしてそれゆえに共感や協働の強力な呼び水になる。今回の震災に限らず、「事件」そのものの注目度や関心は時と共に薄れるのは当然のことで、それを「風化」と表現する人もいるのだけど、実は少し声を発すれば、少し手を伸ばせば、「あなたの物語」に心を寄せてくれる人はたくさんいて。NYと日本の間を行き来して過ごしていると特に感じる。東北各地のインフラ、地域全体の復旧にはまだまだ時間もお金もかかるのだけど、人やプロダクトや物語は意外と簡単に、そしてずっとお安く(それでもまぁ航空券は安くないけど)、海を越えることができるのだ。動ける立場にいて、思いと繋がりがあって、自分にできることもまだまだいくらでもあるなと感じた。

ところで今回の彼らのNY訪問をアテンドしていた財団勤務のスタッフがなんと学部時代からの友達で。Japan-ASEAN Student Conferenceという2010年の企画で一緒だった子。もはやこういう偶然の再会には驚かないので、自分のリアクションもだいぶ薄かったと思うけど、会合が終わって、それぞれの夕方の用事を済ませてから夕食を食べた。日本やASEANの友達の近況を知っている限り共有したり、お互いの久しぶりのアップデートをしながら、ジュニアーズでチーズケーキを食べた。

夜行バスでこれからボストンへ。滞在は3日間。相変わらず仕事やら課題やらを抱えたままだけど。なんというか、地域や国の移動それ自体がそこまで非日常ではなくなってきたので、どこへ行ってもだいたい同じテンションと同じペースで作業や仕事をできるようになっていかねばなるまいなと思う。別の地域に行ったら行ったで特定の目的や訪問先は発生するのだけど、NYにいたとしてもどうせ同じぐらいの時間がイベントやら大学院のクラスやらで拘束されているので、作業に当てられる時間自体はそんなに変わらないのかもしれない。細切れの時間でパパっと気分を変えて手と頭を動かせるようになる必要がある。まぁ今でもそこそこできているのだけど、やはり移動に伴う疲れとか眠気のロスはあるので、慣れと体力増強が必要かなぁ。

石巻をおもう

1年以上お世話になっていた石巻の木の屋さんのビルの取りこわしが終わり、ついにそこが更地になったということを里奈さんの写真投稿で知った。コメント欄に「お世話になりました」と書いたところ、りなさんの返信コメントが、「君の第二の実家ですよ」であり、そこで、「あぁ、そうか」と思ったのだった。建物が取り壊されても帰るべき場所は今でもある。迎えてくれる人はいまでもいる。木の屋さんはめでたく新工場も完成し、りなさんも日和山の上の見晴らしの良い素敵なお家でシェア暮らしをしている。だから、建物が取り壊されたからといって喪失感や寂しさというものはそこまで感じないのだが、それでもやはり、色々と思い出す、お世話になったビルだ。

木の屋の方々とはじめてお会いしたのは2011年の6月、東京から石巻に引っ越した直後のこと。すでにともひろさんやちづるさん達がボランティアを受け入れて手伝っていた、泥だらけの缶詰拾いをする。帰りに伊藤さんからサバ缶をいただいた。本当に美味しかった。木の家さんはビルの5階ワンフロアを貸してくださり、そこが事務所兼ボランティアの受け入れ・宿泊所となった。当時の石巻はまだまだ瓦礫も多く残り、漁港や、道路の側溝にはヘドロが溜まり、そのためハエが多く集まった。暑い夏の季節、天井からハエ取りテープを吊るしながら過ごした。

秋にベランダで、七輪を使ってサンマを焼いてみんなで食べたことを思い出す。僕は火を起こすのがヘタで、「生きる力が足りへんなぁ」などとともひろさんにからかわれた。ベランダからは、日和山と日本製紙工場の煙突の間に沈む夕陽を眺めることができた。9月の終わりには、足手まといだった僕もようやく運転免許を取り、同じ頃にむっちゃんと一緒に牡鹿半島へ通いだした。むっちゃんのiPodに入っていたクラムボンは、牡鹿の山の緑と海の青によく合っていた。

11月にはいよいよOCICAがデビューをした。牧浜のお母さんたちが削って磨く前の下処理として、鹿角を輪切りにするのだが、当時はベランダで自分たちでやっていた。ホーマックに何度も通い、グラインダーや電動のこぎりを揃えて工作した。角は削ると粉塵が飛び、温度上昇によって焦げ臭いカルシウムのような臭いが全身につく。お客さんにもよく手伝ってもらった。冬は凍えるような寒さで、終わってから車内を鹿角の臭いで充満させながら、近くの銭湯へ駆け込んだ。

年が明けてからはお客さんが増えた。日本各地、北から南から、友達や、その友達。ボランティアとしてではない。なんだろう、ただ一緒に同じ時間を過ごした。仕事場兼キッチンとなった大きめの部屋には炬燵が持ち込まれた。牡鹿半島から車で帰ってきて、みんなが炬燵で暖まりながら話をしたりパソコン仕事をしている間に、僕はミルで豆を削って珈琲をいれた。2回、3回と来てくれた友達が珈琲豆を差し入れしてくれたことも多かった。夜にはみんなでご飯を作り、ホットプレートや鍋を囲んだ。一ノ蔵や浦霞を呑んだ。事業が軌道に乗ってくると現場以外の事務仕事ー商品の梱包や発送、メールなども忙しくなった。牡鹿半島から夕方に帰ってきてから仕事をするとあっという間に夜になる。「もうちょっと…」と言いつつ炬燵で横になる。多田さんに「お前それそのまま寝るぞ、絶対寝るぞ」と言われ、「そんなことないですよぉ」と生返事をしながら、案の定朝まで炬燵で寝るのであった。

いただきものも多い職場だった。秋田の松橋さんからはお米や野菜、郡山の井上さんからお魚、高知のふくちゃんは春に採れたてのふきをそのまま持ってきて天ぷらにしてくれたっけ。全国各地のお茶菓子は牡鹿のお母さんたちのところへ持っていくと喜ばれた。作業が終わってからみんなでお茶っこをした。お客さんからだけではなくて、石巻・牡鹿でお世話になっているみなさんからも。三浦さんからは鹿肉、木の屋のゆうやさんから鯨肉。ある日の夜にとつぜんたい子さんが訪ねてきて、たっぷりの牡蠣とムール貝をバケツに入れて持ってきてくれたのにはびっくりした。チエさんには何度も手作りご飯や採れたての魚を差し入れてもらった。鮭のマリネとかはらこめしとか、NYにいる今でも食べたくなる。そんなチエさんたちマーマメイドがはじめた鮎川浜の「ぼっぽら食堂」のお弁当が美味しくないはずはなく、去年7月のオープン以降、とても繁盛している。かずえさんからもらった大きなタラは、さすがに友廣さんや多田さんでも捌ききれなくて、ビルの隣の木村社長とやすこさんの
お宅にいって調理していただいた。あの時のタラの三平汁の味は忘れることができない。

1年遅らせた大学院留学のために石巻を経ったのは去年の8月の終わりのこと。OCICAの本を完成させるためギリギリまでバタバタしていて僕には余裕がなかった。でもこの頃には大学生がインターンとして来てくれていて、とても助けられ、頼もしかった。

NYに移ってから、石巻に里帰りをしたのは都合2回になる。今年の年初、最初の学期が終わって一時帰国していた頃、正月明けに2日間だけ。年末年始には本当に色々なことがあって当時の僕はずいぶん疲弊し落ち込んでいたと思う。それはきっとみんなにも伝わっていたのだろうけど、変わらず出迎えてくれた。2回目は7月の下旬、これまた土日に2日間だけ。やはり里奈さんが色々みなさんの予定を調整してくださり、牡鹿半島・石巻・河北と行脚の旅。帰国したのは5月の終わりだったけど、神戸の実家に帰り、福島で3週間を過ごし、それから東京での仕事が始まってバタバタしていたから、結局帰国してから2ヶ月も経っていた。牧浜の豊島区長に「なんだおめぇ日本さ帰ってきでたんなら一番に顔見せろぉ」と言われ、河北の三浦さんには「お前全然電話もメールも寄こさねぇから俺忘れちまったよ」などと言われ、浜のおかあさんたちには「なんかちょっと大人っぽくなっだねぇ」と驚かれ、朝から晩までお腹をいっぱいにして過ごした。

先月、木村社長が息子さんと一緒にNYに旅行に来てくださった。4階に滞在して活動されていたナディアの富田さんと一緒にご案内した。ヴォルフギャングでステーキを食べ、「マンマ・ミーア!」を観て、Bule Noteでジャズを聴き、ご機嫌で鼻歌まじりの社長と一緒に夜のマンハッタンを歩いた。嬉しかった。とても嬉しかった。
(ところでOCICAはここNYのグッゲンハイム美術館でも販売が始まったようだ。)

石巻は、僕が大学を卒業して最初に過ごした地であり、また社会人としての最初のお仕事をした地である。地元の人たちと比べたらもちろんのこと、つむぎやの中でも僕は最年少であり、とにかくたくさんお世話になり、かわいがってもらった。「大人っぽくなった」と言ってもらえはするものの、おっちょこちょいな性格は変わっておらず、きっと僕はここでは相変わらず「弟」であり「息子」であり「孫」であるのだと思う。たとえビルのあった敷地がまっさらになっても、住民票を抜いて「アメリカ合衆国在住」になっても、みんなのことを、石巻のことをおもう気持ちは変わらない。

NYのお母さんと子どもたちがOCICAに出会った日のこと

東北、宮城県石巻市牡鹿半島のお母さんたちがつくるアクセサリー “OCICA – Deer Horn Dream Catcher”がニューヨークのお母さんたちお子さんたちと出会いました。
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Photo by Junichi Takahashi

5月4日に、ACE Music Studioが主催する「子どもの日を祝おう」イベントにて、OCICAの紹介と、糸巻き作業の体験ワークショップを行いました。ワークショップを提案してくださった、音楽スタジオの運営者吉岡ちょこさんは、同じく宮城県の出身。NYから遠く離れた彼女のご実家も震災によって大きな被害を受けました。(こちらに吉岡さんご自身のOCICA紹介コメントがあります。)

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イベントでは、まずはじめにスライドショーでOCICAプロジェクトの概観、作っている牧浜のお母さんたちの様子や、震災後の現地の様子をご紹介しました。

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その後、お母さんとお子さんが協力してOCICAの糸巻き作業に挑戦!切り込みが入った鹿角に漁網を巻いていく仕上げ作業はとても細かいので、なかなか苦戦されていました(かけ違えるとやり直しだったり…)。それでもみんなで力を合わせながらそれぞれのOCICAが完成しました。

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僕はこの女の子とペアになりました。子どもってほんと元気ですね… サポートしつつも、彼女自身の手で完成させられるように見守ります。

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無事完成し、みんなで記念写真。牧浜のお母さんたちへ!

僕も時間を忘れて一緒に楽しませてもらい、楽しいイベントは幕を閉じました。
楽しいと同時に、少し感慨深い経験となりました。吉岡さんと出会って最初にOCICAのお話をした時、彼女は僕にプロジェクトへの深い共感と伝えると共に、NYにおいて外国人女性が仕事を見つけることがいかに難しいかと語ってくれました。社会の中で役割や繋がりを失うことの辛さ、またそうした中でも自分たちの出来ることをやっていく女性の強さ、エネルギー…海を越えて、石巻とNYのお母さんたちに共通するものが見えました。
OCICAのプロジェクトサイトや写真、動画、取材記事などを見て、「私自身が宮城のお母さんたちに勇気づけられた」と言ってくれました。こうした機会をいただくにつけいつも思うのは、OCICAが、それを手にとってくれた人たちにとっての希望や幸せのきっかけとなってくれれば良いなぁということです。

折しもこのブログを書いている今日は日曜日、母の日です。神戸の実家のおかん、石巻・牡鹿にたくさんいる第二のかあちゃんたち、このイベントで出会ったNYのお母さんたち、そして世界各地のお母さんたち…想いを馳せながら書いています。いつもありがとうございます。どうか今日が素敵な一日でありましたように。

Mothers and children in NYC met OCICA

Our loving accessory “OCICA – Deer Horn Dream Catcher”, made by local mothers from Oshika Peninsula, Ishinomaki, Miyagi-prefecture in Northen East of Japan, is gradually spreading to NYC.
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Photo by Junichi Takahashi
Here is the English article at “Spoon & Tamago”

As I introduced a few times on this blog (symposium on 10th March and speech video), OCICA project started in 2011 with a purpose of community recovery and job creation for local mothers in Makinohama in Oshika Peninsula, most of whom lost their original jobs and housings because of the tsunami and earthquake on 11th March 2011.

On 4th May, I was invited to an event “Celebrating the Children’s Day” by ACE Music Studio and had a workshop to experience making OCICA necklace with mothers and children in NYC. The event and ACE Music Studio is hosted by Ms. Choco Yoshioka, who I met here in NYC, but was originally from Miyagi-prefecture. Her hometown was also severely damaged by the tsunami.
(Here is the comment by Ms. Choco Yoshioka)

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First, I introduced an overview of the project and situation after the disaster, and showed pictures of mothers making OCICA in Makinohama.

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Then, pairs of mothers and children enjoyed making OCICA by themselves. Since looping fishnet around deer horn to make charm shaped with dream catcher is a delicate work, they looked struggling with try and errors. But finally all of them completed.

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One girl asked me to teach how to make it, and she completed it by herself!

It was really fun event, at the same time impressive opportunity for me to find a common ground with women in NYC and in Ishinomaki. When I met with Ms. Yoshioka first, she showed me her deep compassion to the OCICA project and told that how difficult for foreign women in NY in getting jobs in society. She said she was empowered to know energy of mothers in Oshika by seeing photos, video and articles of the project, and told me she wants to do something to pass on the story and context of OCICA and rebuilding process in norther east disaster area to here NYC. I agree with her. I hope, OCICA will be cherished by as many as people and function for them to feel hope.

Now I’m writing this blog on Mother’s day. Wish my mother in my hometown Kobe, my mothers in Oshika peninsula, mothers in NYC, and all of mothers in the world, would have a nice day.

「大人」になってゆく僕たちは感情をどうもてあそべば良いのだろうね

ずいぶんご無沙汰だったけど、土曜日の夜、久しぶりにひとつ。
出かける前にFacebookを覗いた時に友人がリンクを流していたブログ記事に行ってみたら、ちきりんさんの記事でした。2008年なのでけっこう前のやつ。ちきりん的“大人”の条件というものです。
いつの間にやら25歳を過ぎまして、僕もそろそろ大人にならねばなぁと思う日々ですが、上記エントリ、論旨は簡潔明快な正論であり、「そういうものに わたしはなりたい」と、同意するところであります。
青年、大人の階段、ちゃんと登れているでしょうか。ちきりんさんのエントリに即して、ちょっとチェックしてみましょうか。

(2)理解できないものがあると、理解しているか、否か。

(1)から(3)があるのですけど、先に(2)で。
これは本当にその通りですね。(僕がまだまだ未熟者なのはさておき)知識や経験が積み重なるにつれて、個人としても社会としても、知っていることや出来ることは増えていくわけです。しかし、知れば知るほど、出来ることが増えれば増えるほど、自分や人類には、まだまだ分からないこと、出来ないことがたくさんあるのだということが明らかになります。

真っ暗闇の洞窟で松明をかかげると自分を中心に明るくなりますが、例えばその松明の火がが強力になり、明かりが同心円上に広がっていったとします。そうすると、円の面積が広くなった分、闇(=未知の領域)と触れる円周部分は広がるわけですね。そんな例えを昔聞いたことがあります。

ナーバスな万能感を捨てて、己の小ささや人類の限界を受け入れ、”世界の絶望的な広さ”に対して謙虚になりましょう、それが大人の条件です、ということですね。「無知の知」と、昔の偉い人が言っていたと思います。

25歳の僕はというと、今は大学院生という身分でございまして、公衆衛生(Public Health)という分野を学んでいます。予防接種とか、たばこ税とか、国民保険とか、食育とか、マクロからミクロまで色々なレベルで社会に働きかけて、人々の健康増進に貢献することを目指しています。これまでの歴史で、人々の健康を脅かす疾病・障害の原因や対策について、色々なことが分かって来ました。公衆衛生の大きな功績としては、恐ろしい感染症である天然痘を撲滅したことなどが挙げられます。しかしやはり、まだまだ分からないこと、達成出来ていない課題が山積しています。サハラ以南のアフリカ諸国で未だマラリアが猛威を振るう一方で、僕が今いる国ーアメリカを筆頭とした先進国では、肥満や癌や精神疾患などの慢性疾患が大きな問題となっています。先に「原因と対策」と書きましたが、慢性疾患はマルチファクターだと言われていて、遺伝、環境、教育、食事、社会関係、経済…様々な要素が複雑にからみあって発症・進展していくため、何かひとつの要素に原因を帰すことができません。それゆえに対策が難しいのです。それでも日進月歩で日々研究が進んでおり、色んな人々が闘っています。それは決して無駄ではないと信じるところです。

ところがひとつ、”絶望的”な奥深さを持つ問いがあります。結局僕たちは、そもそも「健康とは何か」、あるいは「幸せとは何か」という問いに対しては、何一つ明確な答えを持つこと出来ていないのです。個別の病気の予防や治療、寿命の増進という意味では進歩や成功はありましょう。人口レベルで病気の罹患率や死亡率を下げることは出来ましょう。しかし個人の人生全体で見たときは、どうでしょう。例えば僕は…「酒もタバコもドラックもしてガンや肝硬変になって若いうちにおっ死んでしまったが、好きなように表現をし、自由奔放に生きた人」と、「とにかく事故や病気のリスクを避け、身体にいい物だけをなるべく摂取し、毎日勉強しそしてコツコツ働き、その分若かかりし日々の色んな快楽を諦めることになり、また世間的にも特に陽の目を見ることはなかったが、90歳まで長生きして往生した人」と、どちらが健康な生き方だったのか、どちらが幸せな生き方だったのかと言われれば、なんにも答えることができません。なんなんでしょうね、健康って。統計分析して、なんか分かったような気になりがちですが、やっぱり社会レベルでも個人レベルでも分からないことばかりです。

しかし、かといって手をこまねいて人が病気になり死んでいくのを見過ごして良いわけでもなく、これまで積み重ねられてきた哲学や技術、現代の社会通念、それぞれの個人が生きてきて形成してきた倫理観や正義感といった価値観を照らし合わせて、社会としても、個人としても、その都度意思決定していかねばならんわけです。それが「大人」の実践なのでしょう。それぐらいのことは、未熟な僕でもそろそろ理解してきたところです。大人の階段、一段登った。ヤッタネ!といったところでしょうか。はい。

次、チェック(1)と(3)
(1)不満を感情で表現するか、否か。

次のふたつのことに気がつくと、人はこういう態度をとらなくなります。

ひとつめは、「自分だけが不運で不幸で、不満を感じているわけではない。他の大人はそんなことを感情的に垂れ流さないから、見えないのだ」ということ。

もうひとつが「不満を感情的に表現することは、誰にとっても(もちろん自分にとっても)何一つメリットはない。それどころか大きな害がある。」ということ。

そうですね、これ、ほんとにそう。
周りを見回すとですね、それはもう年齢に関わらず、みなさんほんと凄いなぁ、と感心、尊敬するわけです。いい子ぶりっこじゃなくて、ほんとに、こんなちっぽけな自分の悩みなんかより、もっと色々大変なことがみなさんあるだろうに、笑って前を向いて生きていてすごいなぁ、と思うわけです。
僕、どうにも感情の波が激しく躁鬱のきらいがあり、不満に限らず、その場その場の喜怒哀楽をそのまま表現・発信してしまうところがあったのですが、なんか、落ち着いてきました。
(あ、僕の場合は、不満、はもともとそんなになかったかも。癇癪持ちというか、感動したり落ち込んだりしやすい、みたいな)

伴って、なんというか、ほとんど自分の悩み相談みたいなこともしなくなりましたし、したいとも思わなくなりました。
なんででしょうね。ひとつは、上記でちきりんさんが述べているように、社会のみなさんそれぞれ必死に生きてらっしゃるところ、自分だけ感情むき出しで構っていただくの、なんだか申し訳ないし恥ずかしいなと、だんだんそういう恥の意識が強まってきたからかもしれません。ニューヨークという、多様な人が交わり、それゆえにお互いを自立した「大人」として扱う風土・文化に鍛えられている一面もありましょう。それから、(2)で述べたように、世界はあまりにも広大で、それに対して自分はあまりにもちっぽけで、学ぶべきこと実践すべきことがまだまだ無限にあると認識すると、もっともっと頑張らねばという前向きなエネルギーが強まっていきますね。ネガティブになる暇がなくなってきます。

あともう一つの理由は、
(3)多様な他者を理解しているか、否か。
に関わってきます。

色んな人の視点を取り入れて、客観性、バランスをとっていくということ。これもそうですね、そうありたいと思います。
湧き起こる感情に任せて判断や行動をしてしまうと客観性を失って危ういことになるのですが、最近、焦ったり困った時でも、「あ、あの人だったらどう言うかな」「彼/彼女だったらどうするかな」と想像して一呼吸置けるようになってきた気がします。そうすると、みなさんの時間をわざわざいただいて頻繁に直接会ったりしなくても、脳内で「対話」が出来るわけですね。本の著者と「対話」するというのにも近いかもしれません。自分と違う視点がスーっと入ってきます。落ち着きます。意外とどうにかなりそうだな、と糸口が見えてきます。あんまりデスパレートに慌てることもなくなってきました。悩み相談?自分で出来るじゃん、みたいな。

そういう風に、一呼吸が出来るようになると、ツイッターやブログに、むき出しの感情をそのまま書き散らすこともなくなってきます。結果、ソーシャルメディアに対しては以前より筆が重くなりました。書くこと、なくなってきますね。だんだん。
人に会いたい、話を聞いて欲しい!みたいな、そういう欲求もどんどん小さくなってきました。一方、日々の何気ない社交、それはそれとして、楽しめてはいるので、引きこもっているわけでもなく、むしろどんどんとネアカになってきているような感覚です。

勿論、感情がゼロになることはありません。色々書きましたが、僕自身まだまだ未熟なもので、やはり生きていると

かなしかったりつらかったりさみしかったり

そういう、胸をきゅーっと締め付けるような痛みに見舞われることもしばしばあります。
そんな時、「あ、声を聞きたいな…」なんて思うこともあります。

ただそこでまたどうにか一呼吸、してみると、「あ、大丈夫だな、自分」
まだまだ全然平気だったりしますね。おや。

思ったこと感じたことを純朴に素直に表現する僕の性格―それは不器用とも言えるのですが、を指して、それを魅力だと言ってくれる人もたくさんいます。そうした人々を愛おしく、大切に思います。
しかしだからこそ、そういう人によっかかるのではなくて、自分でちゃんと感情を落ち着けてしっかり生きていかなきゃと、そう考えます。
大人の階段、また一段登った。ヤッタネ?

感情よりも、理性がだんだんしっかりしていきますね。
こういう進歩?を繰り返すと、今みたいに、動じた時に一呼吸、みたいな努力でなく、
そもそも物事に動じたり感情を乱されることが、どんどんなくなっていったりするのでしょうか。
四十にして惑わず、とか昔の偉い人が言っていました。

それは、良いことなのでしょうか。僕は、良い傾向にあるのでしょうか。
社会的には、望ましい方向へ、成長・適応していると言えるのかもしれませんが。
しかし。

僕の感情は、どこへ漂流してゆくのでしょうか。
 
 
 
 
 
今日は、桜の美しい、春の陽気でした。
これを書いている今、窓の外にはまんまるお月様が輝いています。
僕はお茶を飲んでいます。 

After One Year ~距離とか矛盾、あるいは人間の話~ (旧ブログ記事再掲)

こちらに留学する前に書いていた旧ブログ、読み返すとなんだかこっ恥ずかしくて(今のだって十分青臭いが)、閉鎖してはいないけど非公開設定に切り替えている。日曜日のシンポジウムでお話するに先立って、当時の自分を振り返る意味でも、この記事だけこちらに転載しておこうと思う。

書いたのは2012年4月13日(金)つまりここでのone yearというのは、3.11を指すのではなくて、自分が初めて牡鹿半島に行った日を節目としてのもの。

ーーー以下、転載ーー
初めて牡鹿半島に降り立ってから、今週で丁度1年が過ぎた。
あの頃とは違う立場、しかし同じ場所で、過ごす日々。

1年前には男7人で、自己完結型で食糧と水を車に詰め込んで東京を出発し、
悪路を走りながら鮎川浜へ辿り着き、ボランティアに向かったのだが、
初めてそこで作業を行ったのが2011年4月9日〜11日のこと。

当時はこうして石巻に引っ越して、
今の団体(つむぎや)の代表友廣裕一と共に
現地で事業を立ち上げるとは、想像もしていなかった。
(途中までは予定通り大学院留学するつもりでいた)

それに、当時の僕の「東日本大震災」 に対する行き方は、
全くの受動的なそれだったと言って間違いない。
先輩に誘われるままに行っただけだから。
牡鹿半島がどういうところで、東北各地の被害状況がどんなものかなんて
全く知りもしなかった。

それから1年、どうなったか。

2011/04/09~10撮影

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2012/04/10撮影

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景色はずいぶん変わった。
僕自身もきっと色々変わったのだろう。

関係性も深まった。
現場を点々としながらボランティアをしていた頃から、
ミクロな数カ所の現場での活動へと、
地図の縮尺が小さくなった分、

瓦礫の山の下に昔からあったその土地や、
そこに生きる人達の暮らしや表情がより具体的に見えるようになった。
毎週顔を合わせ、一緒に泣き、笑い合いながら共に進んでゆく相手が出来た。

とはいえ、だから素晴らしい、めでたい、という話でもない。

知っていること、出来ることが増えればその分だけ、
まだ見えなかったり分からないこと、出来ないことが見えてくる。
事態がここまで進展すればもう安心、という話ではなく、
一歩進んだら一歩進んだ分だけ、また次の問題や葛藤は当然生じてくるのだ。

瓦礫の山が片付いて見晴らしが良くなったところで、
そのまま人の心まで容易に見通せるようになるわけではあるまい。

Facebook でみんなが喜んでシェアする「美談」も、
週刊誌が喜んで飛びつくような「スキャンダル」も、
それは人間生活を構成する一部の事象に過ぎず、
現実はもっと多様なグラデーションで、0か100かでは切り分けられない。
東北であろうとなかろうと、一人の人間の中に様々な矛盾や葛藤が
内包されているのは当然の話で、表も裏も両面。
仲が良さそうな一方でお互い苛立ったりもする。
それが一つのグループに、一つの村に、一つの地域にと、
複数の相似形が入れ籠状に存在している。
「外」から来て過ごす僕たちが見聞きして知るのは、
その土地や人々が持つ多面体のペルソナの、どこか一部を切り取った話に過ぎない。

だから僕は、製作作業やミーティングを通して見る、
浜のお母さんたちの様々な表情の変化や癖、魅力や特技なんかについて、
他人から聞かれれば具体的な名前やエピソード付きでたくさん語ることが出来るし、
彼女たちとも、日々の気候や体調の変化、他愛のない噂話やめでたい出来事、
色んな話題でいつも盛り上がることも出来るのだけど、

その一方、ふとしたきっかけで震災当時の話題になり、

「海を見ると当時の光景を思い出す」なんて言葉が彼女たちの口から出て来た時は、
それに対する「適切なリアクション」なんてものは、全くもって分からないままでいる。

知ってるけど、知らない。
近いけど、距離がある。

そしてその距離は、3.11当時この場にいなかったという事実から来る、
僕が持てる「当事者性」の限界としての距離かもしれない。

この「距離」をどう捉え、どういう行き方をすべきかというのは、
それなりによく考えてきたが、
その距離を越えがたい「断絶」と悲観するのではなく、
ただ現実そのものとしてそこにあるもの、と捉え、受け止めるだけなのだよな、と
結局はいつもの答えに還ってくる。
(そのスタンスで言えば、昔からそんなに変わってはいないかもしれない)

自分と他者との距離というのは、社会に生きる限り
いつどこであっても感じるし存在している当たり前のものだ。

領域の大小はあれど、誰しもが、他者と共有出来るもの、出来ないものを持っている。
それは何も東北の「被災者」—「非被災者」間の話ではなく、
名前がある具体的な個人間であっても当然に、そしてより肉感を持って感じられる話だ。

ここまで書いてきて、あ、また同じような話にやってきたなと途方に暮れるのだが、
自分と他者間の、接近しがたい距離を受け入れてなお、
絆とか共感とかいったものの可能性に希望を持つとすれば、
その方法は、大文字の物語を括る「」を一つ一つ外し、
それを肉感のある言葉と体験に組み替えていくことしかない。

臭いものにも蓋をせずその臭いをかぎ、
神棚に祭り上げて拝むのではなく同じ目線で直視し、
バカの壁を打ち壊し続けていくしかない。

目に見えない空気に翻弄されるのではなく、
この手に掴めるかたちで小文字の現実を把握してゆき、
それを少しずつ飲み込んで咀嚼していくのだ。

簡単じゃないよな。
でも、それを目指すんだよ。
間隙を縫ってゆけ。

P.S.

昨日はOCICAの製作ワークショップの見学に
保険会社の方が来られて、作業後のお茶っこ飲みにも
参加されてお母さんたちとお話されたのだけど、
彼らのお仕事である保険の話題になった時、
津波での浸水や被害の度合いによって、
どこからが一部損壊なのか、半壊なのか、全壊なのか、とか、
全額保証になるのはどういうケースかとか、
そういった保証内容や額、保険料は各会社や組合の保険を比較してどうなのだとか、
うちの場合はどうだったとか、あそこのお宅はどうだったとか、
実に詳細で具体的に、話が盛り上がったのを見て、

あぁ、こうして地震や津波といった自然現象は、
ここに生きる人々の日常生活の中に具体的に、現実的に
組み込まれているのだなぁ、と感じたわけで、

そこで話される内容は、
「」付きのセンセーショナルで距離のある「津波」や「震災」、
はたまた「3.11」とか「フクシマ」とか「被災地」といった大文字の言葉ではなくて、
彼女たちのすぐ隣にある小文字の、津波とか地震なのであり、
自分の家やその周辺の村、地域で起こる/起こったものなのだとも感じたわけで、

地震や津波の被害は、目を背けるべきタブーとか腫れ物ではなく、
かといって土足で上がり込んで騒ぎ立てて良い大衆のための活劇でもなくて、
起こったこと、話されることを丁寧にまっすぐ受け止めていくだけなのだよな、と改めて。

「絆」なんて美辞を高らかに唄い上げるまでもなく、
僕は、今、ここで、この人達と暮らして、働いている。
ただそれだけ。

目の前で日々具体的に変化していく現実を、
0か100かでないその矛盾や葛藤を、
受け止められる強さを持ち続けたい。

[Event] IPPO x 365 x 2 – Reflections on the Japanese Front- SOHO NYC, 3/9/13(Sat)

IPPO x 365 x 2 – Reflections on the Japanese Front- SOHO NYC, 3/9/13(Sat)
-2 year anniversary of the Earthquake in Japan-
IPPOx2-LOGO-2

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On 9th March Saturday, I will attend the event by “archipicnic“, and introduce you about a project by “Mermamaid,” a local women’s group in Oshika Peninsula, Northern East of Japan, and “tumugiya,” an organization I worked for last year. We developed a new food store “Boppora Shokudo” in Ayukawahama, Oshika Peninsula in Ishinomaki, where most of the buildings had been destroyed by the tsunami on 3.11. “Boppora Shokudo” provide local residents and carpenters coming from outside and other visitors with access to tasty local cuisine. I will show you many photos of projects through which you must feel how powerful, even after the disaster, local mothers are!

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(Photo by Junichi Takahashi(letf), and Ayuco(right) )

[Event] IPPOX365x2
http://archipicnic.blogspot.com/
[Date]Saturday, March 9th, 2013 6:30pm-8:00pm
[Place]Location: Bisazza Flagship in SOHO, 43 Greene Street New York
[Reservation] Email to archipicnic@gmail.com

いのち、みちのく

1月4日~7日の間、石巻に帰っていた。

着いた日の夜、夜の闇と静寂に戸惑いを覚えた。
この街はこんなに暗かったっけ。
たった4ヶ月ぶりなのに。マンハッタンのネオンのせいか。

4日間かけて、雄勝町、石巻、牡鹿半島と、石巻市を車で回った。
石巻「市」と言われたって、やっぱりあまりに違いすぎる。
夜空を見上げれば、オリオン座はどこでも変わらず輝いているけれど。

最終日の今日、牡鹿半島から帰る道中、今までに見たことのない、薄桃と橙と水と灰が溶け合ったような夕空に出会った。
1年間、毎日毎日通い続けたこの半島にも、まだ知らない顔がある。

1年目は、みんな、無我夢中で駆け抜けた。ささやかだが、それぞれの場所で、再生への足取りや、新たなものの芽生えが始まった。前へと進んでいるんだと、希望を抱いた。それは確かだろう。僕も、その中にいた。
2年目の新年、違った立場で見渡してみると、それらの「前進」が、地域全体の復興からすれば、いかに微笑なものかを思い知らされる。しばらくぶりにこの土地を戻り、ゆかりある人々を訪ねれば、誰もが去年と変わらぬ笑顔で迎えてくれる。しかし、話していると、それぞれの土地ごと、人ごとに困難な課題をまだまだ抱えていることが分かる。表情や、顔の皺に、「2年目の疲れ」が浮かぶ。必死で走り続けた人々。自分よりみんなのことをと、いつも笑顔や優しさを忘れず振る舞ってきた人々。「無い」ことを嘆くのではなく、「ある」ものを大切に、前向きに活かしてきた人々。それだけやって、「まだ2年」。この道のりはいつまで続くのだろう。離れた僕に、何が出来るだろう。

駅前商店街の再開店舗もコミュニティスペースも増えたが、人が減って、お客さんや利用者の母数がそもそも少ない。スーパーマーケットモールがある蛇田地方へ移り住む人が増え、地価が上がっているらしい。
牧浜のお母さんたちによるOCICA製作は変わらず続いている。しかし港の牡蠣剥き工場再建の順番はだいぶ後になる。殻つきの牡蠣では剥き牡蠣の1/3程度の値にしかならない。
鮎川浜の「ぼっぽら食堂」は、多くの店舗が破壊されてしまったなかでの貴重なお弁当屋さんとして繁盛しているが、県道のかさ上げが決まれば立ち退きの危険もある。地域の復興にむけた今後の土地利用、再開発計画はまだはっきりとは分からない。

「復興」という言葉の、つかみどころのなさ。今目の前にある生活の、不安定さ。
それでも、ここの人たちは、宮城の父、母たちは、人の心配をしてしまうヒトなのだ
「アメリカさ行っでずいぶん痩せたっちゃ」と、みんな口を揃えて言う。
そして、相変わらず食べきれないほどの美味しいご飯を出してくれる。
「悠平、もっと食えー。アメリカ帰る前に食いだめしろぉ」って。
お腹より先に、胸がいっぱいになって、食いだめどころじゃない。

それで、なんでか今回はみんな一様に、死をほのめかす。
「悠平が次来るときには俺も生きてっかわかんねえぞ」
なんて言いながら、イノチを、愛を、この身に注いでくれる。
なんでそんなことを言うのだろう。何を考えているのだろう。

嗚呼、いつもの軽口で、冗談であって欲しい。
各地の神社で必死に祈った。
この人たちをお守りください。どうかどうか、お守りください。

笑顔で元気に、成長した姿を見せるつもりだった。
土産話に花を咲かせるつもりだった。
会ってみれば、急に日本語が下手になり、顔をくしゃくしゃにした。

そんな僕を見て、また、たくさんの愛が差し出される。
ちっぽけな我が身が、どれだけたくさんのイノチで満たされていることか
かたじけない、かたじけない、かたじけないッ…!
生きるんだ、生きるんだ、生きるんだッ…!

贈り物ひとつ

日本を旅立つその前に、ひとつ、贈り物を遺してきました。
これを読んでくれているあなたにも、どうか受け取って欲しくて、筆をとりました。

留学前に所属していた「つむぎや」という団体で携わっていた、
石巻・牡鹿半島のお母さんたちと一緒につくる、鹿角アクセサリー”OCICA”
そのプロジェクトの1年の軌跡と物語が、書籍となって出版されることになりました。
現在、クラウドファンディングサービスのMotion Galleryを通じて、
店舗での一般販売に先立つ予約注文・出版記念イベントの参加券が購入可能となっています。

http://motion-gallery.net/projects/ocica

photo by Lyie Nitta

期限終了まであと4日となっていますので、よろしければ是非サイトをご訪問のうえ、
決済・ご注文いただけると幸いです。

以下の文章は、プロジェクトに関わった一人として、色々と振り返りながらの文章です。
海の向こうから、徒然なるままに書いています。

ーーーーーーーーーーーーーー

これを書いている今、New York時間では、9/8(土)の夜中(書いている途中で日付が変わった)。
日本では、もう日曜日の午後。
「そうか、日本のみんなのもとには、もうすぐ月曜日がやってくるのだな」
と、当たり前の時差を再認識する。

OCICA本の出版プロジェクト、一般販売に先立っての先行書籍予約・イベント参加のために用意した、
Motion Galleryの特設ページを覗く。
http://motion-gallery.net/projects/ocica
バタバタしている間に、気づけばもう、掲載期限まであと4日である。
慌てて本を読み返す。
書籍の完成を待たずしてNYに来てしまったが、手元に入稿データのPDFがある。
(8月は本当に慌ただしかった。なにせ出国日=入稿日だったのだから…!)

ファイルを開いて、ページを送る。
理恵さんの撮った写真。

どこまでも続く、空と海の青。
起伏の激しい山と丘、連なる木々の緑。
その狭間にポツリとある、小さな浜辺の村。
傷ついた港、牡蠣の殻、漁網、それから鹿の角…

今、自分がいるこの街、マンハッタンとはあまりにもかけ離れた風景をおよそ3週間ぶりに目にして、
一瞬、どこか遠い世界に迷い込んだような気分に陥る。
「僕があそこにいたこと、あれはもしかして、一夏の夢だったのか…?」と。
文章は、確かに自分書いたものだし、描写している場面の一つひとつにも、確かにいたはずなのだけど。

不思議な感覚に少し戸惑いながらもまたページを進めると、そこには、
忘れもしない、作り手のお母さんたちの笑顔。
OCICAを乗せた手に、刻み込まれた皺。


photo by Junichi Takahashi

お世話になった、三浦さん、勝四郎さん、豊島区長。
一緒に走り抜けた、友廣さん、むっちゃん、多田さん、里菜さん、太刀川さん、理恵さん…
みんないた。それからやっぱり、僕もいた。
「あぁ、やっぱり、夢じゃなかったな。」

はて、それでは冒頭に抱いた不思議な感覚の正体はいったいなんなのだろう。
自分の身体で体験した出来事、何度も書き直し、編集を経た文章。
何一つ忘れるはずもなく、鮮明に記憶している。
それでもどこか、読み返していて、新鮮な感覚にみまわれたのだ。

少し考えてすぐ、「あぁ、そういうことか。」と分かった。
関わる一人ひとりが、それぞれに考え、感じながら、
変化を続け、今を歩き続けたそのプロセスこそが、OCICAなのだった。
そのなかで、予期せぬ、しかし豊かな発見や出会いに満ち満ちているのが、
OCICAという物語なのだった。

立ち上がりから書籍の出版まで、震災直後の先行き不透明な状況も手伝って、
OCICAプロジェクトは変化の連続だった。
商品デザイン、現場の運営、商品と物語の見せ方・届け方、事業体制…
常に頭を悩ませ、試行錯誤を繰り返しながら前に進んできた。
でも、だからこそ、関わる一人ひとりが自分ごととしてOCICAを捉えることが出来たし、
その想いが伝播することで、新たな縁が繋がっていった。

いつしか、OCICAは僕たちの手元を離れ、ひとりでに物語を奏でるようになった。
僕たちが予想もしなかったところで、人と人が繋がり、仲間が増え、
新たな販売機会をいただいたり、制作現場の運営や商品加工のプロセスが発展していく。
事業を始めた当初の少ないメンバーだけでは到底届かなかったような、奥行きと深みが生まれていった。

そのプロセスには、確かに一人ひとりの「意志」が介在している。
関わるそれぞれが、自分だから担える役割を果たしたからこその出会いや発展には違いない。
でも、誰か一人がプロジェクトを「掌握」したり、ゲームを「リード」しているという感覚では決してない。
OCICAがあたかも「触媒」となって、誰ともなくそれぞれが自然に動き、交わり合うなかで波紋が拡がっていく…そんな様子だった。

輪切りにした鹿の角に、漁網を巻きつけることで浮かび上がる、ドリームキャッチャーの紋様。
それは偶然にも、OCICAプロジェクトの様態そのものに似ているな、と、途中で気付いた。
境遇も性格も違う様々な人間が、それぞれの視点や立場を維持しながらも、お互いと向き合い、関わりあう。
その、相手に差し出した視線や手が螺旋状に交わり合うなかで、OCICAは育ってきた。
そしてそのサイクルはどこかで「完結」するものではない。
今もなお、始まり、生まれ続ける物語なのだと思う。

離れた土地だから実際の様子を窺い知ることは無いけれど、日本にいるみんなも、現場の様子も、
僕が出国してからも、少しずつ変化を続けているに違いない。
こちらに着いてまだ一ヶ月も経っていないのだけど、僕自身にも何かしらの変化はあっただろう。
本という形にまとまったとはいえ、OCICAと、OCICAに関わる人々は、今も留まることなく、
現在進行形の物語を生きている。
だから、僕が今読み返しても、新鮮な感覚を覚えるのだ。

勿論一方で、時間を経ても変わらないものも、確かにある。
「絆」なんて言葉で簡単に済ませるには、ちょっと悔しいし恥ずかしいけど、
海を隔てても、僕はOCICAの仲間たちと変わらず繋がっていることを感じる。

変わり続けること、変わらないこと。
その両方の感触が、プロジェクトの担当を終え、NYに来た今でもなお、
僕の足を支え、背中を押してくれている。

本を開いてページをめくれば、
忘れえぬあの日々の記憶と、今も変わらない想いが、
それでいてどこか瑞々しい気持ちと共に、
僕の心に去来してくる。

そんな、不思議で愛おしい日々。

この物語を届けたいな、と思った。
そして願わくば、この本が何かのきっかけとなって、
読んでくれた人自身の物語も、より豊かなものになってくれれば、と願う。

今を生きる全ての人たちへ。
この記事を読んでくれている、「あなた」へ。
贈り物ひとつ、心を込めて。
『OCICA 石巻・牡鹿半島 小さな漁村の物語』
http://motion-gallery.net/projects/ocica